マルコによる福音書 4:21‐25
聞く耳のある者は聞きなさい
今日の福音書朗読ではイエス様の語られたたとえ話が読まれました。「ともし火」と「秤」のたとえ話です。このたとえ話は「また、イエスは言われた」という言葉から始まっていることから分かりますように、単独で語られているのではなく、その前の「種をまく人」のたとえに続いています。この「種をまく人」のたとえは、来週の朗読箇所となっていますので、今日はその詳細には触れませんが、そこに語られていることを念頭に置いて今日の箇所に耳を傾けることは大事です。
今日の箇所においてイエス様が「ともし火」として語っているのは何なのでしょうか。秤によって量り与えられるのは何なのでしょうか。それはこの前のたとえ話において「種をまく人」がまいていものに他なりません。14節において主はこう言っています。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)。そこで「種」として蒔かれていた「神の言葉」が、さらに「ともし火」として語られ、「秤」によって量り与えられるものとして語られているのです。
ところで、一般的に「たとえ話」は、物事を分かり易く伝えるために用いられます。しかし、イエス様の場合、どうもそうではなさそうです。弟子たちがたとえ話についてイエス様に尋ねた時、主は次のように説明されました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」(11-12節)。
ここで引用されているのはイザヤ書の言葉です。要するに、イエス様の場合、たとえ話を語るのは「外の人々」が理解できないようにするためだというのです。そう言いますと意地悪に聞こえるかもしれませんが、それは言い換えるならば、「外の人々」としてではなく、内側に身を置いてこそ初めて理解できる話だということです。外から眺めるようにではなく、内側に身を置く弟子として、自分に語り掛けられている言葉として聞いてこそ分かる話。それがたとえ話なのです。
それは「内側」への招きであるとも言えます。だから今日の箇所においても「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)と言われるのです。そこでは聞き方が重要になってくるのです。来週お読みしますが、この前に書かれているたとえ話では、神の言葉が「種」として蒔かれるのです。種には命があります。ですから、良い土地に落ちるならば、三十倍、六十倍、百倍の実りとなります。そこで問題となっているのは聞き方です。それゆえに、同じように命に満ちた種が蒔かれても、道端や石地やいばらの中に落ちたならば実らないのです。
そのように、御言葉が蒔かれたとしても、実らないことはあり得ます。言い換えるならば、神の言葉の内にある命が隠されたままになる、ということは起こり得るのです。そのようなことは、イエス様御自身の宣教においていくらでもあったに違いありません。いや、後の、教会の宣教においても言えることです。この二千年間における宣教の業においても、蒔かれてきた神の言葉の命が、実りとならないで、多くの人の目には隠されたままになってきたという事実はあるのです。
しかし、だからこそ今日の箇所で主は言っておられるのです。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」(21節)。人間であってもそうするではないか。ましてや、このともし火は神が持ってこられたのです。神の言葉ですから。その神が持ってこられたともし火を、神が最後まで隠しておくはずがありません。必ず燭台の上に置かれる時が来るのです。主は言われます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(22節)。
神の言葉が語られていたということがどういうことなのか、私たちは何を聞いていたのか、それが全ての人にはっきりと明らかにされる時が来るのです。神の言葉を確かに聞いて、神の命にあずかってきた人は、その事実がはっきりと現れる時が来る。逆に神の言葉が語られてきたにもかかわらず神の言葉を無駄にしてきた人は、無駄にしてきたという事実がはっきりと現れる時が来るのです。
細かい話になりますが、「ともし火を持って来るのは」と訳されていますが、実は「ともし火が来るのは」と書かれているのです。「ともし火」が来たのです。それゆえに昔から、この「ともし火」はイエス御自身を指すのだという解釈があります。イエス様が語られた言葉もそうですが、究極においてはそのイエス様御自身が、この世界に与えられた神の言葉そのものなのです。そして、隠されていた「神の言葉」が全ての人に明らかにされるとは、イエスという御方が誰であるかが明らかにされるということでもあります。それは最終的にはキリストの再臨において明らかにされるのです。
その時はまた、私たちが何をどう聞いていたのかが明らかにされる時でもあるのです。繰り返しますが、神の言葉を確かに聞いてきた人は、その事実がはっきりと現れる時が来る。逆に神の言葉を無駄にしてきた人は、その事実がはっきりと現れる時が来るのです。それは最終的に決定的な違いとなるのです。
何を聞いているかに注意しなさい
ですから主は「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)と言われるだけでなく、さらに進んでこう言われるのです。「何を聞いているかに注意しなさい」(24節)。いったい何を聞いているのか。何を聞いているつもりで聞いているのか。同じ聞いているにしても「何を聞いているか」ということが決定的に重要なことになるのです。
もともとこの4章は、イエス様が再びガリラヤ湖のほとりで教え始められたところから始まりました。イエス様は舟の上から話をしていました。夥しい群衆が集まってきたからです。3章を読みますと、それはガリラヤ周辺の人々だけではありません。イドマヤからも、ヨルダンの向こうからも、ティルスやシドンのあたりからもやってきたようです。
この福音書を読みますと、集まってきた人々の求めは様々だったようです。ある人たちは病気を癒してほしくて集まってきました。ある人たちは神の奇跡を見るために集まってきました。また、ある人たちは彼らをローマ人の支配から解放してくれる政治的な解放者を期待して、イエス様のもとに集まってきました。そこには多くの求めがありました。しかし、そこで次のように書かれていることは重要です。「そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」(1節)。そこに書かれているように、イエス様は様々な求めをもってやってきた群衆との間にあえて距離を取られたのです。そして、そこから「よく聞きなさい」(3節)と言われたのです。
「聞きなさい」と言われて語られた言葉は、彼らにとって何だったのでしょう。彼らはどのような言葉として聞いたのでしょう。ある人にとっては、主が語られる言葉よりも、病気の癒しの方が大事だったかもしれません。ある人にとっては、主が語られる言葉よりも、神のリアリティが奇跡という形で現れることの方が大事だったかもしれません。ある人にとっては、主が語られる言葉よりも、社会を変革して現実の生活を楽にしてもらう方が大事だったかもしれません。もっとも彼らは皆、ユダヤ人です。ラビが語る律法教えはそれなりに大事だとは思っている人々です。なので、弟子たちに向けて語られる大事な教えとして外から関心しながら聞いていたかもしれません。あるいは普段、ラビから教えを受けていない人は、この機会に律法の教えを聞くのも良かろうと思っている人があったかもしれません。
それぞれがそれぞれの思いをもって、それぞれの価値判断によって聞いていたのだと思います。だからこそ「何を聞いているかに注意しなさい」と言われるのです。癒しの方が大事だと思っているならば、癒しよりも価値のない言葉として聞いているならば、そのような言葉として与えられることになるのです。そのような言葉よりも政治的なアクションの方が大事だと思いながら、政治的なアクションよりも価値のない言葉として聞いているならば、そのような言葉として与えられることになるのです。単なる律法の教え、有益な教えとして聞くならば、そのような言葉として与えられることになるのです。
しかし、イエス様は、蒔かれているのは「神の言葉」だと言われるのです。神の言葉は神が語られるのです。そして、神が語られるならば、神にしかなし得ない神の出来事が起こるのです。そのような神の言葉として聞くならば、その人には神の言葉として与えられるのです。いや、それだけではありません。さらに豊かに神の言葉は与えられることになるのです。神の言葉として聞くからです。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(24節)とはそういうことです。
そして、さらに「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」とさえ主は言われるのです。「神の言葉」を持っていないということは、ある意味では全てを失うということでもあるのです。なぜなら、神の言葉を神の言葉として聞いてきたか、それとも神の言葉を無駄にしてきたかは、最終的に必ず明らかにされるからです。
今はある意味ではまだその価値が隠されていると言えます。それがどれほど大きな私たちの救いであるかは隠されています。なので神の言葉を聞いていても聞かなくても、大きな違いはないように見えるかもしれません。しかし、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。その違いはやがて明らかにされることになるのです。主は言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」そして、「何を聞いているかに注意しなさい」と。