コロサイの信徒への手紙 3:18‐4:1
10節には「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」と語られていました。そして、先週お読みした12節には、さらに具体的に身に着けるべきものが次のように語られていました。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(12節)。先週申しましたが、ここに挙げられている「憐れみの心」や「慈愛、謙遜、柔和、寛容」が、実際的に必要になるのは他者との関わりにおいてです。一人で憐れみ深い人になることはできないし、一人で慈愛に富むことも謙遜になることもできません。ですから、このことが実践されるべき場所は、私たちが誰かと共に生きている場においてであり、その第一は私たちが一つの体とされている「教会」であることを私たちは見てきました。
しかし、話はそこに留まりません。パウロはここで「家庭」の話をするのです。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」なくてはならないところは、教会の交わりに留まらず、さらに私たちがこの世に遣わされていく場所にまで及ぶのです。遣わされている場において、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と語られているのです。
この世界に遣わされて直面する第一の場、それは「家庭」です。それゆえに今日の箇所では最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられているのです。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ労使関係や主従関係が存在する、さらに広いこの世の間関係を考えることができるでしょう。いずれにせよ、遣わされるこの世において、私たちは「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」ることが求められているということです。
まず、夫婦の関係においてパウロは勧めています。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18、19節)。当時の女性の地位は大変低いものでした。それはギリシャ人においてもユダヤ人においても変わりませんでした。しかし、パウロはここで、女性は劣っているから、夫の方が偉いから、妻は仕えるべきなのだと言っているのではありません。パウロは何と言っているでしょうか。「主を信じる者にふさわしく」と言っているのです。仕えるのは、それが「主を信じる者にふさわしい」ことだからなのです。
主イエスを信じ、主に結ばれる時に、「仕える」ことの意味が変わります。なぜなら、主イエス御自身こそ、神の御子であられながら徹底して低くなられ、僕の姿となられ、私たちの救いのために仕えてくださったからです。主は弟子たちに言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。
主は最後の晩餐において、弟子たちの足を洗われました。当時の奴隷がしていたことを、あえてなさいました。それはやがて主が十字架につけられて死ぬことが何を意味しているかを表す象徴的な出来事でした。主は僕となって私たちの罪を洗ってくださった。罪の贖いのために死んでくださったとはそういうことです。
主を信じる者であるとは、言い換えるならば、主に仕えていただき罪を洗っていただいた者であるということです。主に仕えていただいた者が今度は人に仕える者となる。それは主を信じる者にふさわしいことです。そのことが「妻たち」について語られているのです。もちろん「主を信じる者にふさわしいこと」が求められているのは「妻たち」だけではありません。
それゆえに、夫たちには別の面から「主を信じる者にふさわしいこと」が勧められています。それは「妻を愛しなさい」ということです。それはキリストが教会を愛されて、十字架にかかって命を捨てられたように、それと同じように妻を愛しなさいということです。そこでは、「相手が愛してくれたら仕えなさい」とか「相手が仕えたら愛しなさい」ということは一切語られていません。相手がどうであるかではないのです。まずこちらから仕え、また愛することが求められているのです。実際それがキリストのしてくださったことであり、キリストを遣わされた父なる神がしてくださったことでした。まず神が愛して、神が行動してくださいました。そのことを思います時に、私たちにとって具体的な身近な関係において「主を信じる者にふさわしいこと」もまた見えてくるのです。
次に、親子の関係についてこのように言われています。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(20-21節)。ここでも子供が従うべき理由は、子供が親より劣っているからではありません。親の方が人生経験に富んでいるからでもありません。子供が従うことは、「主に喜ばれることです」と書かれているのです。あくまでも主との関わりにおいての話なのです。
それゆえに、親もまた「どんなことについても両親に従いなさい」と語られて大丈夫であるかどうかを考えなくてはならないのです。そこではただ「子供たち」のあり方が語られているのではなく、親の生き方そのものが問われているのです。子供が従って良いような人生を送っているか、ということです。親が喜びと感謝をもって神に従順であって初めて、子供が親に従順であっても大丈夫なのです。そのことなしに、力をもって子供を服従させようとするとき、ここに書いてあるように「子供をいらだたせる」ことになるでしょうし、子供が「いじける」ことも起こってくるのです。子供たちが希望にあふれた人として神への感謝と従順に生きられるようになるためにも、親と神との関係は重要です。
次に語られているのは労使の関係です。これはある意味で、私たちが社会生活におけるすべての人間関係においても適用できる言葉であろうかと思います。パウロは「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心から行ないなさい」(23節)と勧めます。このようにして私たちは、日常のあらゆる関係において、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。私たちは、やり甲斐や生き甲斐とは全く無縁と思えるような作業においても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。気難しい人々、愛することが困難な人々との関わりにおいても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。
また、私たちが仮に人の上に立つような場合でも、ここでパウロが「主人たち」と呼んでいるような立場に身を置くことがあったとしても、自分の主人が天にいることを忘れてはならないのです。そのようにして主人たる者も主キリストに仕えることができるのです。
そのように、私たちがイエス様を愛し仕えるチャンスは、この世において無限にあると言えるでしょう。今週、私たちには、どのような機会が与えられるでしょうか。
(祈り)
2022年2月16日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 3:18~4:1
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