2022年2月2日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 3:1~11

 コロサイの信徒への手紙 3:1-11

 「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2:11-12)。異端の思想と行動様式に引きずり込まれそうになっていたコロサイの信徒たちにパウロはそのように語り掛けていました。彼らは今こそ、洗礼を受けたキリスト者であるということがどういうことかをしっかりと認識しなくてはならないのです。

 そして、前回お読みしました2:20以下では、特に「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もない」ということを根拠に、実際にはまだ世に属しているかのように生き、戒律に縛られて生きている彼らの誤りを指摘していました。今日はその続きです。3章に入って、彼はさらに「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」ということを根拠に、何を求め、何を捨てなくてはならないかを語るのです。

 「キリストと共に復活させられた」。それがキリスト者に起こっている事実です。私たちはキリストと共に葬られ、一度死んだものであり、そして復活させられて新しい命、復活の命をいただいているのです。ですから、あの復活の朝に主に起こったことは、実際には私たちにも起こっていると言えるのです。「キリストと共に復活させられた」のですから。

 しかし、実際にはそれは人間の目には見えません。キリストが復活した時の栄光の姿は私たちにおいては見えません。与えられた永遠の命も見えません。信仰のない人と同じように、死んでいきます。それを聖書は「神の内に隠されている」(3節)と表現しています。そういえば、復活の時に現れたイエス様の命も、昇天の後、神の右の座に着いてからは、もう目に見える形では見えません。キリストも一旦神の内に隠されました。私たちの命、永遠の命も「キリストと共に神の内に隠されています」。

 そして、当然のことながら、それは永遠に隠されたままではありません。一旦神の内に隠されたキリストが、現れる時が来るのです。キリストの再臨においては、復活させられて天に挙げられ、神の右に座しておられるキリストであることが全ての目に明らかにされるのです。その時には、一緒に隠されていた私たちの永遠の命も現れることになります。私たちが救われているとはどういうことか、既に永遠の命を与えられているとはどういうことか、それがはっきりと現される時が来るのです。

 それが神の内に隠されている命の希望です。それは神の内に隠されているのすから天にあるのです。上にあるのです。それは1章において「あなたがたのために天に蓄えられている希望」(1:5)と語られていたものに他なりません。だからパウロは「上にあるものを求めなさい」というのです。それは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(2節)ということです。この世においては、私たちは既に死んでいるのです。

 「だから」とパウロは続けます。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(5節)。

 「捨て去りなさい」という言葉は、直訳すると「殺しなさい」となる、とても強い言葉です。殺さなくてはならないものがあるのです。まず「みだらな行ない」「不潔な行ない」。これらは性的な不品行です。しかし、本当の問題は表に現われてこないところにあります。行ないには必ず根があるのです。それらは「情欲」「悪い欲望」と呼ばれています。悪は心の中に始まります。そして心の中にあるものが表に出てくるのです。

 また、さらに「貪欲を捨て去りなさい」と語られています。問題は単に性的な事柄に対する情欲や悪い欲望だけではないのです。破滅をもたらすのは、もっと広い意味での「貪欲」なのです。ところで、ここに非常に興味深い一文が出てきます。それは「貪欲は偶像礼拝に他ならない」という言葉です。貪欲が私たちを動かしている時、私たちはもはや神を神として生きてはいないのです。神ならぬものを神としているのです。それは偶像礼拝です。

 そしてパウロは、さらに5つの捨てるべきものをリストアップしています。8節に用いられている言葉は着物を脱ぎ捨てる時に使う言葉です。つまり、汚れた服を脱ぎ捨てるように、それらのものを脱ぎ捨てよ、ということです。まず「怒りと憤り」。「怒り」と訳されている言葉は、いつまでもめらめらと燃えている怒りの火を表わします。執念深く怒っていることです。これに対して「憤り」と訳されている言葉は、瞬間湯沸し器のように突然爆発する怒りです。これらが発展して「悪意」になります。これは人を害しようとする意志です。そして、表に現われて「そしり」になったり「恥ずべき言葉」になったりします。さらに互いに対する不誠実な偽りの言葉となって出てきます。口から悪いものが出てくるのです。

 そのように、殺してしまうべきこと、捨て去るべきものがあるのです。それは「地上的なもの」です。それらはすべて地上のものを追い求めるところから、さらには地上のものを追い求める欲望は決して満たされないという事実から出て来ることだからです。それらを追い求めていたのはキリストと共に死んだはずの「古い人」でした。だから、これまで語ってきたことを改めて「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」(9節)と表現するのです。

 脱ぎ捨てるのは着るためです。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(9-10節)。人は神にかたどって(神の像として)創造されました。その神の像が回復された姿こそが、キリストと共に復活させられて与えられた「新しい人」に他なりません。それが完全に現れるのは先に述べたようにキリストが現れる時ですが、それはまた私たちが日々身に着け、日々新たにされていくべきものとして語られているのです。

 そして、それは「真の知識に達する」と書かれています。この知識とは神を知る知識、またキリストを知る知識です。それは知的理解ではなく人格的な交わりをも意味します。そして、それこそが私たちの既に与えられている命、永遠の命の本質に他なりません。イエス様御自身が「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と祈っているとおりです。

 「上にあるものを求めなさい」と勧められていました。それは究極においては、この「真の知識」に完全な形で達すること、すなわち既に与えられている御父と御子との交わりに完全な形で与ること、神の内に隠されている命に完全に与ることを求めることに他ならないのでしょう。そこに向かうからこそ、また「造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」ことが私たちの切なる願いとなり求めとなるのです。そして、それを着たいからこそ、不潔な古い着物を脱ぎ棄てることにも喜びをもって取り組むことができるのであろうと思います。

(祈り)

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