コロサイの信徒への手紙 3:12‐17
10節には「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」という言葉が出て来ました。そして、今日の箇所には具体的に身に着けるべきものが語られています。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。その後には、互いに忍び合うこと、赦し合うことについて語られています。そして、「 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」と語られています。「きずな」と訳されているのは「帯」という言葉です。ちょうど今お読みしたすべてが着物に喩えられているのです。一つ一つを身に着け、そして帯を結んでまとめます。それは本当の意味で自分のものとすることです。どこかに置き去りにされることなく、生活のあらゆる場面に伴っているということです。そのように身に着けることが求められているのです。
しかし、その「身に着けなさい」という勧めには前提があります。「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と書かれているのです。つまり、「私たちは何を為すべきか」を考える前に、「神は何を為してくださったか」を考えるなのです。神が選び、聖なる者とし、愛してくださった。その事実が先にあるということです。
ところで、聖書が「選び」について語る時、それは私たちが一般的に「選び」について語るのとは意味合いが異なります。「わたしは選ばれた」と言う時、通常は、「わたしは相応しい資質なり資格なりがあると認められた」ということを意味するのでしょう。例えば、ある人がサッカーの日本代表に選ばれたとするならば、それはすなわち、その人に日本代表チームのメンバーになるに相応しい能力があると認められたことを意味するでしょう。ですから、「選び」は「誇り」と結びつきます。相応しいと認められたのですから。
しかし、聖書が神の「選び」について語る時、それは全く違う意味合いです。「あなたがたは神に選ばれた」という時、それは神の一方的な恵みを表現しているのです。私たちが救われたのはなぜか、神の子供として生きる者とされたのはなぜか。私たちが何をしてきたかとか、何をしてこなかったかとか、私たちが優れているとか、劣っているとか、そんなことは全く関係ないのです。ただ、神がそう望まれたから。すなわち、私たちの側に資格があったからではなく、ただ一方的な神の恵みによるのです。私たちの側には根拠がない。そのことを表現する時に聖書は「選び」という言葉を用いるのです。
そのようにして、ただ恵みによって私たちを神のものとしてくださったのです。箸にも棒にもかからないような私たちを、ただ恵みによって拾い上げるようにして、神に属する者としてくださった。これが「選び」であり、この事実を指して「聖なる者とされた」とパウロは語っているのです。そこに現されているのはただ一方的な神の愛です。私たちが愛されるにふさわしいからではありません。にもかかわらず、神は愛してくださった。そのように、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と語られているのです。
そのように「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」人として、「身に着けなさい」という勧めの言葉を私たちは聞くのです。この順序は逆ではないのです。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着けたから愛されるのではないのです。ただ一方的に愛されていることを知った者として、これらを身に着けていくのです。
ここに挙げられている「憐れみの心」とか「慈愛、謙遜、柔和、寛容」とかが、実際的に必要になるのはどういう時でしょう。それは他者との関わりにおいてです。一人で憐れみ深い人になることはできないのです。一人で慈愛に富むこともできないし、一人で謙遜になることもできないのです。それらが一つ一つ問われるのは、誰か他の人との関わりにおいてです。具体的には、例えば、身近な誰かについて忍耐しなくてはならない時です。受け入れがたい人を受け入れなくてはならない時です。あるいは誰かを赦さなくてはならない時。ですから、パウロは続けてこう言っているのです。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)。
そのように、私たちが「造り主の姿に倣う新しい人」を身に着け、具体的に「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着け、さらに愛の帯を身に着けていくのは、私たちが誰かと共に生きている場においてです。その第一は教会です。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と語られている第一の場は教会です。一つの体となるべく私たちが招かれた教会です。ですから、さらにパウロは身に着けるべきものを記した上で、教会生活を具体的にどのように送るべきかを、さらにいくつかの勧めとして記しているのです。
第一に、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」ということです。ここで「支配するようにする」と訳されていますが、ここでは特に「審判員にする」という意味の言葉です。そして、「キリストの平和」とは、キリストを通して与えられた神との和解に基づく平和です。それは「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」というように、私たちが教会とされていることの前提として、私たちの心に、また互いの間に、既にキリストによって与えられている平和です。その「キリストの平和」に審判員になっていただく。ジャッジしていただくのです。教会生活における私たちの心はどうなっていますか。それがキリストの平和と調和しているならば、何をするにせよそこには感謝が満ちているのでしょう。もし調和していないならば、キリストの平和の審判は、私たちを悔い改めへと導いてくださるでしょう。
そして第二は、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」ということです。これはキリストの語られた言葉ともとれますし、またキリストについての言葉とも理解できます。いずれにしても、今の私たちにとっては、聖書を通して語られる言葉、福音の言葉です。私たちはそのようなキリストの言葉をただ聞くだけでなく、豊かに宿らせなくてはなりません。そしてどうするのでしょうか。知恵をつくして互いに教え、諭し合うのです。そして、感謝して心から神を誉めたたえるのです。キリストの言葉を豊かに宿らせるのは自分のためだけではありません。他者のためであり、また、神に感謝し共に神を誉めたたえるためでもあるのです。ここで、私たちは特に教会の交わり、礼拝における交わりの大切さを教えられます。神様は孤立したひとりよがりの信仰者を望んではおられません。私たちの信仰者としての存在は神のためであり他の者のためであることを忘れてはならないのです。
そして最後に「何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行ない、イエスによって、父である神に感謝しなさい」と勧められています。私たちはしばしば律法的に「これはしてはよいことか、悪いことか」「罪であるか、罪でないか」というようなことを考えます。しかし、もっと大切な判断基準は、私たちを愛し、私たちのために御自身を捧げてくださったキリストの名によって語れるか、行なえるか、ということなのです。それは言い換えるならば、「私はこのことをしました。このことを語りました。主イエスの御名によって父なる神に感謝します」と感謝の祈りを捧げられるかどうか、ということなのです。
(祈り)
2022年2月9日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 3:12~17
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