2022年2月23日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 4:2~6

コロサイの信徒への手紙 4:2‐6

 「目を覚まして…ひたすら祈りなさい」と書かれています。「ひたすら祈りなさい」とは「祈り続けなさい」という意味です。「目を覚まして祈り続けよ」という勧めは、ゲッセマネの園において主が弟子たちに言われた言葉を思い起こさせます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ14:38)。既に見てきましたように、この手紙が書かれた一つの理由は、彼らの中に異端の教えが入り込んできたために、大きな誘惑に直面していたからでした。内にある誘惑だけではありません。外からの迫害もまた彼らを主から引き離す誘惑となるのでしょう。この手紙だけでなく、他のパウロの手紙を読みましても、当時の教会にとって、誘惑に陥らないように目を覚ましているということが、どれほど重要であったかを思わされます。

 そして、それは彼らだけでなく、私たちにとっても極めて重要な課題なのです。私たちを主から引き離そうとする力は今日においても様々な形で働いているからです。そして、目を覚ましているということは、「ひたすら祈りなさい」という言葉を結び付けられています。祈り続けることなくして目を覚ましていることはできないからです。どんなに活動的に見えても、聖書の知識を蓄えても、キリスト者が祈りの生活を失うとき、霊的には眠りこけているのです。祈ることを他のことに置き換えて信仰生活が成り立っているならば危険信号です。祈ることを他のことに置き換えて信仰生活が成り立っているならば危険信号です。

 さて、パウロは「ひたすら祈りなさい」と勧めた後に、「わたしたちのためにも祈ってください」と続けます。パウロはコロサイの教会のためにひたすら祈っていました。パウロの祈りはこの手紙の1章9節以下に記されており、私たちは既にその祈りについて学んできました。そして、最後にパウロもコロサイの教会に祈りを求めるのです。パウロはどのようなことを祈ってほしいと言っているのでしょうか。牢獄から釈放されることでしょうか。いいえ違います。パウロが求めたのは別のことでした。パウロは自分のために獄の門が開かれることではなく、御言葉のために門が開かれることを求めたのです。そして、伝道者として神の救いの計画、福音の奥義が語れるように祈ってほしいと言うのです。

 ここからいくつかの大事なことを学ぶことができます。第一に、伝道は祈りなくしては為されえないという事実です。神の言葉が語られ、人が神の救いにあずかる。それは人の業ではありません。人間の知恵や力によるのではないのです。もちろん私たちは福音を伝えるために出来る限りのことをすべきでしょう。福音はあくまでも人間の言葉で伝えられますから。しかし、御言葉のために門を開いてくださるのは神様なのです。ですから神様に祈り求めるのです。

 そして第二に、使命を全うするために祈りを求めることの大切さです。パウロの意識の中にはいつも獄の外にいる多くの人々、キリストに出会っていない多くの人々がいたのです。パウロの使命はそれらの人々に福音の奥義を語り伝えることでした。すなわち彼らのために生きることでした。「このために、わたしは牢につながれています」と彼は言っているのです。パウロはその使命を全うするために祈りによる助けを求めたのです。

 キリスト者に与えられた固有の使命は、キリストの証し人として生きることです。私たちは「自分の頭の上の蝿を追うだけで精一杯」というようなキリスト者であってはならないのです。私たちが信仰者とされたのは、キリストの恵みを証しすることにおいて、他者に仕えるためなのです。自分の救いの事だけを考えているエゴイストを造るためにキリストは十字架にかかられたのではないからです。

 そして、キリストの恵みを証しして生きることは人の力によって為され得ることではないのです。私たちは、肉なる者としては、人々のつまずきにしかなれない者です。人々がキリストに近づくのを妨げるようなことしかできないのです。だから祈らなくてはならないのです。神の御力を求めなくてはなりません。そして、そのために互いに祈り合うべきなのです。

 そしてパウロは、福音宣教という関連から、更に二つのことを勧めています。5節と6節をご覧下さい。

 第一は、時をよく用いて賢くふるまうことです。時をよく用いるとはどういうことでしょうか。「時」と訳される言葉は「カイロス」と「クロノス」と二つあります。クロノスはいわゆる「時間」です。これに対して「カイロス」とは、「機会」を意味します。ここで使われているのは後者です。「時間を大切にしなさい」と言っているのではないのです。神の与えてくださったチャンスを生かして用いなさいと言っているのです。

 それはキリストを証しする機会です。それは「外部の人に対して賢くふるまいなさい」と続いていることから分かります。私たちは、当時のキリスト者が「外部の人」との関係にしばしば困難を抱いていたことを忘れてはなりません。皇帝や神々の像に跪かない彼らは、しばしば無神論者であると非難されました。これまで人々と同じように行ってきたことを、キリストを愛する故に断った時、彼らはいわれのない中傷にさらされることになりました。キリストの御名のゆえに、不当な扱いを受けるようになりました。

 だからこそ、「時をよく用いなさい」「チャンスを生かして用いなさい」とパウロは勧めるのです。まさに目覚めていることが求められる瞬間があるのでしょう。例えば、中傷された時に、不当な扱いを受けた時に、目を覚ましているならば、そこにこそ機会がある。そこでこそキリストを証しする機会がある。それは言葉だけであってはならないのです。そこで本当の意味で行動が問われる。「賢くふるまう」ことが求められるのです。パウロがどのように「時をよく用い」、また「外部の人に対して賢く」ふるまってきたかは、使徒言行録を見てもよく分かります。

 そして続いて、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と語ります。「快い」と訳されているのは「恵みにおいて(恵みの中で)」というのが直訳です。「親切な」「恵み深い」「優しい」という意味です。そのような言葉を「塩で味付けされた言葉」とパウロは呼びます。そのような言葉を用いる。ひと時だけでなく、いつも用いる。常に誤解と中傷にさらされている人にとっては、そのような「塩で味付けされた言葉」を用いる機会、言ってみれば練習する機会はいくらでもあったに違いありません。興味深いのは、そのようにいつも行っているならば「一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」というのです。必ずしも好意的でない状況において、キリストを証しする言葉は、必ずしも知識を積み重ねることによって与えられるのではなく、いつも「塩で味付けされた言葉」を用いていることによって与えられるのだということは、心に留めておくべきことでしょう。

 そのように、ひたすら祈りなさいということから始まって、パウロの勧めは語る言葉にまで至りました。これら一つ一つの勧めの言葉は互いに無関係ではありません。時を生かすことも、適切な言葉を語ることも、霊的に目を覚ましていなくては為しえないことです。私たちが目を覚まして感謝をもってひたすら祈るとき、特に福音宣教のために互いに祈り合うときに、私たちはキリストの恵みを証しする機会を捉えることができるのであり、また適切な恵みにあふれた味のある言葉を用いることができるのです。

(祈り)

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