サムエル記上 2:27‐36
「主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる」(2:9)とハンナは歌いましたが、その「主に逆らう者」としてまず登場してくるのは、周辺のペリシテ人ではありませんでした。そうではなく、シロの聖所に仕える祭司エリの息子たちだったのです。
当時の宗教的な堕落がいかに甚だしかったかが、12節以下に描かれていました。彼らの犯した罪、それは主への供え物を軽んじることであり、また、臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていたことでした。彼らの行いについて耳にしたエリは「なぜそのようなことをするのだ」と諭します。しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとはしませんでした。
シロの聖所がそのような状態にあった時、一人の「神の人」すなわち預言者がエリのもとに来て主の言葉を告げたというのが今日の箇所です。それはエリの家に対する神の裁きの預言でした。ここでいくつかの点に注目してみましょう。
まず、この言葉は問題の息子たちに対してではなく、父であるエリに対する言葉として語られています。エリはシロにあった聖所の祭司として登場しますが、彼がイスラエルにおいて特別な位置を持っていたことは後になって分かります。エリが死んだ時、そこにはこう書かれています。「彼は四十年間、イスラエルのために裁きを行った」(4:18)。これは士師記に繰り返されていた、士師の在任期間を示す表現と同じです。
そのように、エリが政治的な意味においても指導的な立場にあったことが分かります。彼は四十年の長きに渡ってイスラエルを治めたのでした。しかし、彼は自分の家庭を治めることができなかったのです。そして、彼と子孫に対する厳しい裁きの言葉は、そのことのゆえに語られているのです。
旧約聖書を見ると、このような人物は少なくないことが分かります。サムエルの息子たちも彼の道に従いませんでした(8:4)。ダビデもまた子育てに失敗しています。息子たちの間の殺し合いは、さらにはダビデ王に対するクーデターに発展しました(サムエル記下15章)。列王記に入りまして、主に従った敬虔な王として挙げられるのはヒゼキヤ王とヨシア王です。どちらも宗教改革を行った王です。しかし、後継者はどちらも主に逆らう者となっています(列王下21:1以下、列王下23:31以下)。
これはいったいどうしてなのでしょう。ある意味ではとても不思議なことと言わざるをえません。しかし、もう一方で、このことは人類の歴史において、恐らく初めから繰り返されてきた現実でもあろうかと思うのです。それほどに家庭を治め、子供を正しく育てることは難しい。ある意味では国家を治める以上に難しいということなのでしょう。改めて親の責任というものはいかに重いものであるかを思わされます。
この厳しい裁きの言葉は、特にエリが「神よりも自分の息子を大事にした」ことへと向けられていることをも心に留めなくてはなりません。確かに、エリは息子たちを咎めてはいます。「なぜそのようなことをするのだ」と。しかし、エリが息子たちに語っている言葉をよく見てください。エリがまず問題にしているのは、神が軽んじられていることではないのです。そうではなくて、息子たちについて悪い噂が立っていることなのです。
エリは言いました。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。実は、これは一般的な話ではないのです。通常は、人が主に罪を犯したら、執り成すのは祭司の役割なのです。しかし、エリの息子たちについてはそうはいかないのです。祭司である彼らが主に罪を犯すならばもはや執り成してくれる者がいない、ということです。実際、彼らは祭司の業そのものを侮っているわけですから、もはや執り成しはどこにもない。そのことが問題なのです。一見すると神に対する悪行を咎めているように見えますが、気に懸けているのは神のことではないのです。祭司である息子たちには執り成す者がいないことを心配しているのです。
本来ならば、神が侮られないためにも、彼らを聖所から追い出さなくてはならないのです。いや聖所から追い出すだけでなく、イスラエルから断たなくてはならないのです。しかし、エリは神よりも自分の息子を重んじた。そのことに対して裁きの預言が語られているのです。
そもそもエリが自分の息子を神よりも大事にしたのは、この時に始まったわけではないでしょう。むしろ、その結果をここに見ると言ったほうがよいかもしれません。私たちは子供を大事にすれば正しく育てられると思いがちです。しかし、神よりも子供を大事にするならば、神を畏れ敬う子は育ちません。それは本当の意味で子供を大事にすることにもならないのです。
さらに、私たちはここに神の裁きの厳しさを見なくてはなりません。25節には「主は彼らの命を絶とうとしておられた」と書かれておりますが、その前には訳されておりませんが「なぜなら」という言葉があります。「彼らの命を絶とうとしておられたから、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった」というのは逆のような気がします。しかし、そうではないのです。彼らが「父の声に耳を貸そうとしなかった」こと自体が、もう既に裁きなのだということです。神を軽んじて、悔い改めようとしない者は、それに対する裁きとして、ついに悔い改めること自体ができなくなるのです。
そして、神の裁きは確実に現実の世界の中に形を取っていきます。「わたしがあなたの腕とあなたの先祖の家の腕を切り落とす日が来る」(31節)と主は言われました。腕とは子孫のことです。これはサムエル記上22:11以下で実現します。サウルがアヒトブの子アヒメレクと、その一族を皆殺しにするのです(22:18)。このアヒトブというのは、エリの息子ピネハスの子です。ここでアビアタルという名の息子が一人だけ助かります。それが33節で「わたしは、あなたの家の一人だけは、わたしの祭壇から断ち切らないでおく」と言われている一人です。
しかし、そのアビアタルもまた、やがて祭司の職から退けられることになるのです。代わりにザドク家の者が祭司の家系となるのです。アビアタルが退けられるのは列王記上2:27ですが、そこにはこう書かれています。「ソロモンはアビアタルが主の祭司であることをやめさせた。こうして主がシロでエリの家についてお告げになったことが実現した」。まことに戦慄するような言葉です。エリの時代から百年も経った後に、なお神の裁きは実現するのです。
神に対する罪は、その人だけ、あるいはその目に見える家族だけに関わるのではありません。人は先祖と子孫の連鎖の中に存在するのです。つまり、私たちが今いかに生きるかということが後々の子孫にまで関係しているのです。主は言われました。「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」(30節)。神の裁きの厳しさは、神に対する態度がいかに重大な意味を持っているかを示しているのです。
最後に、この預言者が主の裁きの言葉の前提として語っていることに耳を傾けましょう。27節と28節です。ここには主が自らを啓示し、彼らの先祖に祭司の務めを与え、祭儀を執り行わせて主の御前に立たせ、また本来主のものである献げものから祭司の受けるべき分として与えてきたことが語られているのです。 つまり、彼らが祭司であることは神の先行する恵みによるのであって、それ自体光栄に満ちた務めであったということです。
それほどにまで主がしてくださったことに対し、「あなたはなぜ」と現実を問うているのです。なぜ、彼らは主を侮るようなことをしたのでしょう。それは主が何をしてくださったかを忘れたからです。自分たちのような者がイスラエルの民とされていることに、祭司とされていることに、何の驚きも感謝もなくなってしまっていたということです。
恵みに馴れてしまうということは恐ろしいことです。それは私たちにも起こります。私たちは、既にどれほど大きな恵みにあずかっているかを決して忘れてはならないのです。