サムエル記上 2:1‐26
先週はサムエルの誕生の話でした。聖書には繰り返し「誕生」の話が出て来ます。歴史の流れを変える人物の誕生にまつわる話は、聖書にたくさん出てきますが、その誕生の次第は実に様々です。しかし、どのような仕方で誕生するにせよ、それが人間の力が及ばない神の領域であることが、共通して語られていると言えるでしょう。まさに、新しい命の誕生は、人間の思いを超えた神の支配を指し示す代表的な出来事であると言うこともできるのです。
ですからもう一方において、聖書には「不妊」の話も繰り返し出て来るのです。特に、サムエルの誕生のように、不妊の女から誕生したという物語は、その誕生が純粋に神の意志によること、まさに神の特別な計らいによる出来事としか言いようがないわけです。人間はどうすることもできないのですから。
そのように聖書に繰り返し出てくる誕生の物語は、特に不妊の女からの誕生の物語は、そうやって一人また一人と誕生することによって綴られていくイスラエルの歴史が、さらには人類の歴史そのものが、まさに人間の力を越えた、神の支配と導きの中にあることを指し示していると言えるでしょう。
その事実を深く受け止めていたのは、サムエルの母ハンナでした。自分の力ではどうすることもできないことに直面して、そのことのゆえに与えられる多くの苦しみを経験して、その中で彼女がなおも神に向かい続け、魂を注ぎ出すような祈りを捧げ、その末に一人の子供が産まれた。それは、まさに神の特別な計らいのもとで神からの命が誕生したとしか言いようがない出来事でした。
もちろん、ハンナのケースに限らず、本来はすべての子供の誕生がそうなのですが、しかし残念なことに、ある意味ではハンナのようなプロセスを経ないと、なかなかその認識を持てないというのも事実です。それゆえに、神を畏れることなく「わたしの子、わたしの子」と言って、あたかも本来的に自分の所有物であるかのように子供を扱ってしますということも起こってまいります。
しかし、ハンナはそうではなかったのです。それは彼女がまず神への誓いを果たそうとしたことから分かります。イスラエルにおける乳離れはだいたい1~2歳です。赤子が一番可愛い時期、彼女はサムエルを手放すのです。彼女は神に赤子をゆだね、シロの聖所にあずけて言うのです。「わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」(1:26)と。さらに「彼らはそこで主を礼拝した」と書かれています。それこそが毎年シロにおける礼拝の度にペニナのことで苦しんできたハンナにとっての「礼拝」であったのです。
今日お読みしたのは、そのようなハンナの祈りです。詩編に類似を見る典型的なイスラエルの賛歌です。また、受胎告知を受けたマリアの讃歌にも似ていることに気付かれましたでしょう。そこで今日は、この祈りにおいていくつかの点に注目したいと思います。
まず第一に注目すべきことは、この祈りが個人的な感謝の祈りにとどまらず、民全体の勝利を宣言する祈りとなっていることです。この歌の背景は、これまでに見てきたように、不妊のためにもう一人の妻ペニナによって苦しめられてきた一人の女が主に祈って子供を得たという、非常に個人的な事柄です。しかし、1節の「敵」は複数であって、単にペニナのことではないのです。その時のイスラエルにとって敵とは直接的にはペリシテ人のことです。それは4章になって明らかになります。もちろん、この歌が伝えられていく過程において、国家的な敵は変化していきました。アッシリアである時もあり、バビロニアとなる時もあります。しかし、それが何であれ、神の民を滅ぼそうとする大きな力に対する勝利が宣言されているのです。
それは10節に「王」「油注がれた者」という言葉が出てくることからも分かります。「油注がれた者」とはメシアのことですが、この場合、「王」と同義です。ハンナの時代はまだ王国ではありませんから、王はいません。この言葉がいかにしてこの歌に入ってきたかは不明ですが、いずれにせよ、この祈りが単に個人的な祈りに留まっていないことは明らかです。
考えてみてください。ハンナが経験したこと自体は一つの家庭における極めてパーソナルな出来事だったのでしょう。しかし、そこでハンナは当たり前のように、いわば国家に関わる歌をうたっているのです。それは私たちには奇妙に移りますが、しかしそれは極めて大事なことなのです。一人の人生において経験される神の御業は、ただ個人の領域に留まっているわけではないからです。神様はこの世界に対して行動しておられるのです。例えば、私たちが救われたこと、信仰者とされたこと、どのような信仰生活を送るかということ、それは単に個人的な事柄ではないのです。それはこの世界に関わる意味を持つのです。
第二に注目すべきことは、その根拠として挙げられている事柄です。個人に対して働かれる神が、同時に世界の創造主であると語られているのです。4節から8節に至るまで、主が働かれる時にいかなることが起こるかということが書かれています。それは簡単に言えば「逆転」です。現実に目に見える事柄が逆転するのです。どんなに力ある者も低くされる。どんなに力のない者も、抑圧されて這い蹲って生きている者も、永遠に打ち捨てられたままではないのです。神が介入される時に、彼らは高くされるのです。
ハンナはペニナとの関わりにおいて、個人的にそのことを経験したと言えます。しかし、ハンナはそれがイスラエルの民に起こることとして歌うのです。それは個人の人生に働かれる神は、世界の創造主なる神であるからです。「大地のもろもろの柱は主のもの。主は世界をそれらの上に据えられた」(8節)。世界の主が恵みによって現実に働かれる。これがこの歌を貫いている柱となっている信仰の事実です。
第三に注目すべきことは、取り上げられている対立が、単にイスラエルとペリシテ人の民族的な対立ではないということです。問題は単に民族的な事柄ではありません。この歌で対比されているのは、9節に見るように、「主の慈しみに生きる者」と「主に逆らう者」なのです。
それゆえに3節でも、「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない」と語られているのです。この直接的な背景は、イスラエルを支配する大国の勢力の傲慢さと、支配されるイスラエルの貧しさであることは確かです。神は高ぶった力ある者を打ち倒されるのです。その神は、すべてを知っておられ、人の行いを正されるのです。「人の行いが正されずに済むであろうか」と書かれておりますが、これは「人の行いを量られる」という言葉です。神は正しく量られるのです。
なので、先にこの歌を、「民全体の勝利を宣言する祈りとなっている」と表現しましたが、それは単に民族的な意味でのイスラエルの他民族への勝利ということにはならないのです。問題の中心は神との関係にあるからです。なので、イスラエル自身がこの「主に逆らう者」として扱われることもあり得るのです。そして、事実、そのようなことが起こるのです。
ですから、12節以下ですぐにエリの息子たちの話に移るのです。神に逆らう者としてまず登場してくるのはペリシテ人ではないのです。祭司の家の者なのです。彼らがしたことは二つです。一つは犠牲の肉をむさぼったことです。これはイスラエルの犠牲に関する習慣と関わります。犠牲として献げられた肉の一部は祭司とレビ人のものとなるのです。エリの息子たちは、ある意味において、これを賢く合理的に行おうとしたのだと思います。しかし、これが神に関する事柄であることを見失っていたのでした。神に関わることを人間的に扱うことを、神は御自身に対する敵対とみなされるのです。
第二は姦淫です。「臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にして」と書かれています。これはカナンの習慣においては決して珍しいことではなかったと思われます。カナンにおいて、祭儀と性行為は深く結びついていたからです。エリの息子たちがカナンの習慣に深く影響されていたということなのでしょう。あるいは、積極的に、異教的な習慣を取り入れようとしたのかもしれません。
いずれにせよ、エリの息子たちの行為は、イスラエルの現実を物語っております。問題の根は単にペリシテ人の支配にあったのではありません。イスラエルの中にこそあったのです。神は正しく量られます。慈しみに生きる者を神は引き上げますが、高ぶって逆らう者に神は厳しく臨まれるのです。
サムエル記はさらに列王記へと続きます。その物語は国家の滅びを記すに至ります。これを書き記した者に、ハンナの歌は新たな響きをもって迫ってきたに違いありません。