ローマの信徒への手紙 14:13-19
互いに裁き合わないようにしよう
「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」(13節)。今日読んだ聖書の箇所において、そのように語られていました。「互いに裁き合わないようにしよう。」―そのように聖書において語られているのは、現実には複数の人間がいると、必ずと言ってよいほどに、裁き合いが起こるからです。自分を正しいものとし、相手を正しくないと見なす。そのようなことがお互いの間に起こります。そして、裁き合いは様々な形の争いを引き起こします。その争いは、小さくは個人と個人の争いから、大きくは国家と国家の戦争にまで至ります。
そのように争いは裁き合いによって起こります。言い換えるならば、正しさと正しさとのぶつかり合いにおいて起こります。争いは正しい人間が複数いるところで起こるのです。自分は間違っているかもしれないと思っている人の間では、通常、争いは起こりません。しかし、私たちはなかなか、「自分は正しくないかもしれない」と、考えることができない。どうしても、《自分の正しさ》を基準として、他者を裁く側に回ってしまいやすい。ということで、私たちは繰り返し、繰り返し、聖書から、「もう互いに裁き合わないようにしよう」という言葉を聞かなくてはならないのです。
ところで、この聖書の言葉が書かれた当時の教会においては、具体的には何が問題となっていたのでしょう。今日お読みした聖書箇所の少し前に書かれているのですが、そこで問題となっているのは、実は、肉を食べない人と肉を食べる人の間の裁き合いなのです。「肉を食うなんて、お前は間違っている!」とある人は言い、「なんで肉を食ってはいけないのか!それは俺の自由じゃないか!」ともう一人は言う。そんな争いです。考えてみれば、つまらない話でしょう。しかし、往々にして裁き合いと争いは、些細なつまらないことを巡って起こるものです。
実際、当時の教会において、「肉を食べてはならない」という主張がどうして生まれたのか。詳しいことは、よく分かりません。一般的に市場に出回っている肉は、多くの場合、一度異教の神殿で捧げられたものであったという当時の事情がそこにあるのかもしれません。なので、そのような異教的な肉は汚れているので、そのような肉を食べないように、いっそのこと肉食そのものを断ったクリスチャンがいたことは考えられます。あるいは、肉食を汚れたこととする他の理由があったのかもしれません。いずれにせよ、肉は食べてはいけないと主張する人々には、それなりの根拠も理由も、彼らなりにあったはずなのです。
その一方で、肉を食べること自体何ら問題はないと考える人々もいたのです。この手紙を書いたパウロという人も、実は、肉を食べること自体には問題がないと考えていたようです。それは決して汚れたものなどではない。彼はこう言っています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14節)。
そのようにパウロ自身は、肉を食べようが食べまいが、それはその人の自由だと考えていたようなのです。しかし、パウロはその自由を人に押しつけようとはしないのです。肉を食べる自由についての主張を展開し、相手が間違っていることを認めさせて、それで解決しようとはしないのです。そうでなく、彼は言うのです。「もう互いに裁き合わないようにしよう」と。
それはどうしてなのか。今日お読みしたところには、「《従って》、もう互いに裁き合わないようにしよう」と書かれていますでしょう。「従って」というのですから、実はその前に理由が書かれているのです。本日の聖書箇所には入っていないのですが、今日の箇所の直前には、こんなことが書かれているのです。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(10節)。要するに、本当の意味で正しく裁くことができるのは、神様だけだと言っているのです。私たちは自らを正しいものとして、裁く側に身を置こうとするのですが、その私たち自身が、本当は正しい神によって裁かれる立場にあるのだ、ということです。
聖書の他の箇所には、こんなことが書かれています。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブライ14:13)。
私たちの人生には人目に触れている部分と隠された部分があります。悪いものは通常、隠されたところにある。しかし、神に対しては隠されているものなど、何一つありません。神はすべてをご存じです。その神の前に立った時に、人は自分の正しさを主張できるのか。「他の人間が悪いのだ」と、他の人のことを言っていられるのでしょうか。
今日の聖書箇所の直前には、また、こんなことも書かれているのです。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(12節)。神の前では、もはや自分を正しいものとして、他の人のことを問題にしているわけにはいかないというのです。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」。つまり、他の人ではなく、自分自身をこそ、問題にしなくてはならない、ということです。そして、パウロは言うのです。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」。
こうしてみますと、「従って」という意味合いが、よく分かりますでしょう。「あなたは本当に他の人を裁くことができるような人間ですか?」ということです。しかし、裁き合わないとするならば、私たちはどうしたらよいのでしょうか。自分のことだけを問題にし、他の人のことは放っておいたら良いのでしょうか。
お互いを建て上げることを求めよう
どうもそういうことではなさそうです。聖書の言葉は次のように続きます。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(13節)。
ここに書かれているのは、直接的には教会の話であり、信仰生活の話です。ですから、「つまずきとなるもの」「妨げとなるもの」とは、信仰生活のつまずきとなるものや妨げとなるものを指しています。それらを置かないように、ということは、相手の信仰生活のことを考え、配慮しなさい、ということです。互いに裁き合うのではなく、むしろ相手の信仰生活のことについて配慮しなさい、気を配りなさいと。
このような言葉を読みますと、改めてハッとさせられるような気がします。実際、どうでしょう。自分を正しいものとして、誰かを裁いたり、断罪したり、責めたりしている時って、本当に相手のことを考えてそうしているのでしょうか。必ずしもそうではないのでしょう。
これを書いているパウロは、具体的には、自分と同じ考えを持っている人たちに語り掛けているのです。先にも言いましたように、パウロ自身は、肉を食べようが食べまいが、それはその人の自由だと考えているのです。だから、パウロ自身、肉を食べる自由を主張することもできたでしょうし、反対意見の人々を言い負かすことだってできただろうと思うのです。
しかし、パウロはここで、むしろ自分と同じように自由を主張する人たちに向けて語っているのです。相手の信仰生活のことを考えなさい、配慮しなさい、と。14節では、こう言っています。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(15節)。
一般的に、この世の理論ではこうはなりません。もしわたしが肉を食べることで誰かが心を痛めるとしても、それは心を痛める側の問題だということになるのです。わたしは間違ったことをしているわけじゃないから。肉を食べるか食べないかは私の自由ですから。ならば、それで誰がつまずこうが、その人の問題だ。――そうです、そう言ったとしても、確かに間違いではないかもしれません。しかし、そこでパウロは言うのです。「あなたはもはや愛に従って歩んでいません」と。
パウロは、正しい主張であるか否かということよりも、愛に従って歩んでいるか否かを問題にするのです。先ほども触れたように、確かに、人が自らの正しさを主張するとき、そこには何らかの根拠があるのです。理由もあるのです。しかし、繰り返しますが、その正しい主張をもって相手を裁いているとき、本当に相手のことを考えてそうしているかと言えば、必ずしもそうではないのです。「あなたのためを思って、言ってあげているの!」と口にしていたとしても、私たちはそこで、「本当にそうなのか」と自らに問いかけなくてはならないのです。実際、正しい主張をしている自分自身が、「愛に従って歩んでいない」ということが起こるからです。それゆえに、パウロは言っていたのです。「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」。
そして、今日の聖書箇所においては、最終的にこのように語られているのです。「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(19節)。今日の説教題はここから取りました。今週は特に、この言葉を心に刻み、新しい週へと歩み出したいと思うのです。「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」。
実は、「互いの向上に役立つこと」というのは意訳なのです。原文では、「互いを建て上げること」と書かれているのです。建築物を建て上げるという意味の言葉です。
「建て上げる」という言葉は、お互いが未完成であることを前提としています。完成しているなら、もはや建て上げる必要はないのですから。お互いが未完成であることを認めて、お互いが完成へと向かうことができるように、お互いを建て上げることを追い求めようじゃないか。ここに書かれているのは、要するにそういうことです。
お互いの未完成な状態を裁き合っても、それはお互いが完成へと向かうためには、何の助けにもなりません。そんなことは分かり切ったことです。だから、裁き合うのではなくて、平和や互いの向上に役立つことを、完成へと向かうために役立つことを、追い求めようではありませんか。そのように聖書は私たちに語りかけているのです。
2024年7月21日日曜日
「平和と互いの向上のために」
Labels:
ローマの信徒への手紙,
新約聖書