2023年10月15日日曜日

「現在はプロセスに過ぎません」

フィリピの信徒への手紙 1:1-11

わたしは感謝します!
 今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。

 この手紙は「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。彼は獄中にいる囚人としてこれを書いているのです。しかも、パウロが獄中にいる間、彼に敵対する者たちが自らの勢力を拡大するために日夜働きを進めていたのです。15節以下にはこう書かれています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 しかし、そのような状況にも関わらず、それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言うのです。このように、彼が神に感謝を捧げているのは、彼が望ましい境遇にあるからではないのです。感謝の言葉など出て来ようはずもない状況において、彼はフィリピの教会を思いつつ、神に感謝を捧げているのです。

 彼はフィリピの教会を思い起こしながら、感謝を捧げます。彼自身は望ましい境遇になくても、フィリピの教会そのものは喜ばしい状態にあったからでしょうか。いいえ、そうではなさそうです。例えば、2章においてパウロは次のように書いています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:2)。つまり、現実にはそうなっていないということです。

 また、この教会にも、他の教会と同じように異端の教師たちが入り込んでいました。ゆえに、パウロはこの同じ手紙の中で、実に激しい言葉でこのように語っているのです。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい」(3:2)。このようにフィリピの教会もまた他の教会と同じように、獄中にいるパウロの心を痛め、悩ませる要素を沢山持っていたのです。

 しかし、それでもなお彼は「わたしは感謝します!」と言うのです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。彼はそのような状態にあってもなお喜びをもって祈ることができるのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。

 パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じました。彼らの信仰生活が始まりました。それは信じた彼らが始めたと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が善き業を始められたということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。

 ですから、パウロは神がなさっていることに目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。

最初の日から今日まで
 神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。そのように、神がなさっていることに目を向けることは重要です。

しかし、もう一方において、人間の側がしていることに目を向けることも重要です。彼らはキリストを信じて、実際に信仰生活をスタートし、それを継続しているのです。そうです、「継続している」という人間の側のこともまた重要なのです。それゆえに、パウロはここで、「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。パウロの言わんとしているのは、彼らが「福音にあずかり続けている」ということなのです。

 この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、彼らは共に集まり、礼拝を捧げ、聖餐を行い、キリストの体と血とに与り続け、信仰に留まっている。――それがここで語られていることに他なりません。そして、大切なことは、パウロのこの言葉において、明らかに「今日まで」という言葉が「最初の日」という言葉と同じ重みを持っているということです。「最初の日」だけが重要なのではないのです。

 この国においてキリスト教人口はいまだ1パーセントに過ぎません。そのような社会の中で洗礼を受けてキリスト者となるということは、一般的に大きな決断を伴います。洗礼を受けるまでに大いに悩んで考えて何年もかけて決心に至る人も少なくありません。そして、神の御前において畏れをもって洗礼を受けるのです。そのように洗礼と入信という、「最初の日」は大変重く受け止められるものです。

 しかし、その「最初の日」と同じほどに重要なのが「今日まで」ということなのです。今、ここにおいてキリストを信じる者として恵みにあずかっているという事実なのです。そのように信仰生活が継続されていることなのです。繰り返し変わることなく聖餐卓を囲んで礼拝を続けていることなのです。「洗礼」だけでなく、その後に繰り返しあずかることになる「聖餐」もまた同じように重く受け止められなくてはならないのです。

 パウロにはその重さが分かっているのです。実際には問題が山積している教会かもしれない。パウロとの関係も常に良好であったわけではありません。しかし、それでもなお、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きな意味を持っているかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。

キリスト・イエスの日までに
 そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。6節をもう一度読んでみましょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 もしある二人が結婚式を挙げようとしているならば、一生懸命に結婚式の準備をするに違いありません。しかし、考えてみれば、結婚式の準備も大事ですが、それ以上に大事なことは結婚の日に向けて自分自身を備えることでしょう。では、結婚式ではなくてお葬式であったらどうでしょうか。最近では生前から葬儀の準備をする人も増えてきました。しかし、これも考えてみれば、葬式の準備以上に大事なことは、葬式の日に向けて、正確に言えば人生の終わりの日に向けて、自分自身を備えることであると言えるでしょう。結婚の日と違いまして、人生の終わりの日にはすべての人が等しく向かっていますから、これは皆に当てはまるわけです。

 しかし、私たちは「人生の終わりの日」よりももっと大事な日に向かっているのだと聖書は語っているのです。それは「キリスト・イエスの日」です。「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日であり、私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。ならば、その日に向けて自分自身が備えられることは、人生の終わりに向かうこと以上に重要なことです。

 その日に向けて備えられるということで、パウロはどのようなことを考えていたのでしょう。それはパウロの祈りの言葉によく表れています。9節以下をご覧ください。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。

 さて、私たちはそのような者に、本当になれるのでしょうか。他の人についてそう思えますか。自分自身について、そう思えますか。もしかしたら、そうなれると信じることは、とても難しいことかもしれません。

 しかし、だからこそ私たちはパウロが「祈っている」という事実を忘れてはならないのです。それはとりもなおさず、このことを神に求めてもよいのだ、ということを意味するからです。究極においては、これは私たちの成し遂げることではなく、神が始め、神が成し遂げてくださることなのです。パウロはこう言っていましたでしょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)と。

 これは私たちの成し遂げることではなく、神が始め、神が成し遂げてくださること――だからこそ、大切なことは、その神が与えてくださった福音に与り続けるということなのです。「最初の日から今日まで」です。そして、明日も明後日もその次の日も、キリスト・イエスの日まで。「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」、その日に向けて福音に与り続けることが大切なのです。

現在は救いの完成に至るプロセスに過ぎません。結論が出るのはキリスト・イエスの日です。現在、目に映るところがどのような状態であれ、パウロのように「わたしは感謝します!」と神に感謝を捧げながら、神の成し遂げてくださる御業を信じて、共に祈り続けてまいりましょう。


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