士師記7:1-8
主は共におられます
「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。今日の朗読はそのような言葉から始まっていました。
イスラエルの陣営とミディアンの陣営が対峙しています。ミディアンの陣営。正確に言うならば、それはミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結束した連合軍です。兵士の数およそ13万5千人(8:10)。対するイスラエルの民は3万2千人です。敵の四分の一にも及びません。どう考えても圧倒的に不利です。彼らはどうして勝ち目がないような戦いに挑もうとしているのでしょう。そもそもこの民を率いているギデオンとは何者なのでしょう。
彼らが向き合っているミディアン人やアマレク人や東方の諸民族というのは、駱駝に乗って移動しながら生活している遊牧民です。彼らは定住している他の民族から略奪することによって生活の資を得ている。そんな人々です。例にもれず、イスラエルの民も度々略奪にあっていました。種を蒔き、農作物を育て、やっと刈り入れという時期になるとミディアン人がやってくるのです。彼らは農作物だけではありません。羊や牛やろばまで奪っていくのです。
6章には次のように書かれています。「彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった」(6:4‐5)。
そのような悲惨な時代にギデオンという男が登場してまいります。彼の登場シーンは次のように描かれています。「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(6:11)。
酒ぶねの中で小麦を打っていた男。それがギデオンでした。酒ぶねとは岩をくり抜いて作った穴です。そこに隠れて脱穀していたのです。当時の脱穀は風の吹くところで行うものなのです。風で殻を吹き飛ばして実を分けるのです。酒ぶねの中のような、そんな風通しの悪いところでちまちまと小麦を打っていて、うまく脱穀できるはずがありません。しかし、そうせずにはいられないほど、彼はミディアン人の襲来を恐れてビクビクしていたのです。
しかし、そんなギデオンのもとに主の御使いが現れて、こう言ったというのです。「勇者よ、主はあなたと共におられます」(12節)。酒ぶねに隠れているギデオンに「勇者よ」と呼びかけるのは、普通に考えれば、たちの悪い皮肉かジョークです。しかし、神はわざわざ御使いを遣わして大真面目に語られるのです。「勇者よ」と主は彼を呼ばれる。それは彼が強いからでも勇敢であるからでもありません。主にとって重要なのは、今、彼が《何者であるか》ではないのです。彼が《何者になり得るか》ということなのです。そこで決定的に重要なのは続く一言です。「主はあなたと共におられます」。彼が何者になり得るかは、まさにこの一言にかかっているのです。
かつて同じ言葉を聞いた一人の男がいました。彼は殺人を犯して逃亡し、人目を避けて何十年も羊を追いながら生活していた一人の羊飼いでした。その名をモーセといいます。主は彼に現れて言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3:10)。
これも普通に聞けば悪い冗談以外の何ものでもありません。当時の超大国であるエジプトの支配から奴隷の民を連れ出すことなんてことを一介の羊飼いにできるはずがありません。当然モーセは言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。しかし、そこで主が言われた言葉はこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」(同12節)。
「わたしは何者でしょう」とモーセは言います。しかし、何者であるかは主にとってはどうでもよいのです。主にとって重要なのは彼が《何者になり得るか》ということだからです。そこで決定的に重要なのは「わたしは必ずあなたと共にいる」という一言です。まさにこの一言にかかっているのです。そして、モーセはイスラエルの解放者となりました。そして、今、主は御使いを通してギデオンに語られるのです。「主はあなたと共におられます」と。
主が共におられるからこそ
ギデオンは「主はあなたと共におられます」という言葉を受け止め、立ち上がりました。そうです、主の言葉を信じて立ち上がったのです。そして、彼はやがて《主が共におられる》とはどういうことかを知ることとなるのです。しかし、それはギデオンが予想もしなかった仕方においてでした。それが今日お読みした聖書箇所に書かれていることです。
先にも触れましたように、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結集した陣営は13万5千人にも及びました。イズレエルの平野に広がる大軍に、イスラエルはどう考えても太刀打ちできません。しかし、ギデオンは主を信じて戦うことを決断します。彼はついに角笛を吹き鳴らしました。
戦うためには、まず人を集めなくてはなりません。イスラエルには他の諸民族のように、訓練された常備軍がいるわけではありません。人をかき集めて戦うのです。まずギデオンの身内であるアビエゼルの氏族が集まってきました。それだけでは足りません。ギデオンは必死でした。自分が属するマナセの部族の隅々にまで使者を送り、人々を呼び集めます。それでも足りません。さらには北方の部族であるアシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わしました。こうして戦いに備えて人々をなんとかかき集めました。最初に申しましたように、その数は3万2千人です。まあ、よくかき集めたと思います。
もちろんそれでもなお敵の数には遠く及びません。しかし、ギデオンは諦めませんでした。今日お読みした朗読の箇所にはこう書かれています。「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。彼らは3万2千人しかいないのに、それでも進んで行き、戦うつもりでいたのです。
ところが「共におられる主」はギデオンにこう言われました。「主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。』こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った」(2‐3節)。いくらなんでもあんまりではないですか!ただでさえ少ないのです。それだってギデオンが必死でかき集めた人数です。主はそれを三分の一以下にしてしまわれました。主はギデオンの軍隊をあえて弱くされたのです。
ところが主はさらに言われます。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない」(4節)。そして、水辺に下った時、常に戦える用意をしながら水を手にすくってすすった者だけを残したのです。戦いを忘れ、膝をついて水を飲んだ者は帰らせました。残ったのはたった3百人でした。ギデオンがせっかく3万人以上集めたのに。
主が共におられるとはどういうことですか。全てが順調に願った通りに進むことでしょうか。どうもそうではないらしい。主が共におられるということは、時としてこのように、徹底的に弱くされるという形になるのです。
ここに書かれていることは、私たちにも覚えがあります。せっかく集めたものを散らされてしまうようなことが起こります。せっかく積み上げてきたものが崩れてしまうようなことが起こります。せっかく集めた3万2千人を3百人にされてしまうようなことが起こります。それまでの努力が水の泡になってしまうようなことが起こります。力をそがれます。弱くされます。そうです、徹底的に弱くされるようなことが起こります。
しかし、神様は言われるのです。「あなたが頑張って、あなたがかき集めて、あなたが積み上げて、それで乗り越えたならば、心がおごり、『自分の手で救いを勝ち取った』と言うだろう」と。そうです、人は「わたしがやった」「わたしたちがやり遂げた」と言うようになるのです。その時、自分が主と共にいるかどうかは、どうでもよくなるのです。しかし、それは人間にとって本当は最も不幸なことなのです。
だからこそ、そうならないように、主は時として3万2千人を3百人にされるのです。人間の願いとは逆行するようなことが起こるのです。人間の力ではどうにもならないところに置かれるのです。しかし、それが人の目には最悪の状態であったとしても、それは主に見捨てられたことを意味するのではないのです。
その3百人はどうしたのでしょう。彼らは夜中に三つの小隊に分かれ、角笛と空の水がめを持って出て行きました。松明の光を水がめで隠しながら、気付かれないように敵陣を包囲する形で近づいたのです。そして、一斉に角笛を吹き、水がめを割って大きな音を出し、松明をかざして角笛を吹き続けたのです。この奇襲攻撃に敵陣は大混乱に陥りました。そして、結局かの13万5千人の大軍は3百人の前に敗走したのです。
この世の目から見るならば、ギデオンの作戦勝ちと言えるでしょう。しかし、自分が一生懸命集めた人々を神様によって散らされ、頼れる人間の力をそがれ、徹底的に弱くされたてしまったギデオンには分かっていたはずです。これは主の勝利である。人間の願い通りに進まなかったところにおいて、最も弱くされたところにおいて、主の偉大な力が現されたのだ、と。主は確かにギデオンと共におられた。そして、ここにいる私たちと共にいてくださいます。どこまでも主に信頼し、主と共に歩んでまいりましょう。
(祈り)
2023年10月22日日曜日
「無力にされた勇者」
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