ヘブライ人への手紙 3:1‐6
先週お読みしました箇所の最後にはこう記されていました。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(2:18)。この手紙において初めて「試練」という言葉が出てきました。具体的には、迫り来る迫害が問題だったのです。それに伴う苦しみが問題だったのです。しかし、それが「試練」と呼ばれるのは、それが信仰に関わっているからです。「試練」とは信仰が試みられる時です。「試練」と訳されている言葉はまた「誘惑」という意味の言葉でもあります。罪への誘惑です。神から離れることへの誘惑です。そこで問われているのは、神のもとに留まるのか、それとも引き離されてしまうのか、ということが問われる時であるということです。
そのような試練は、迫害のみならず、様々な形でやってきます。しかし、私たちには先導者としてのイエスだけでなく、神の御前において憐れみ深い大祭司イエスがいてくださるのです。自ら試練を受けて苦しまれた御方、それゆえに試練の中にいる者を助けてくださる御方がおられるのです。その御方が試練に勝たせてくださるのです。ですから、今日の箇所においても、「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と勧められているのです。「考える」というのは、ただ漠然と思うことではありません。これは注意を集中して目を向けることを意味します。同じ言葉が「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」と主が言われた時に用いられています。そのように目を向けるのです。
しかし、今日はまず、その前に、「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかけられていることに注意しておきたいと思います。呼びかけを心に留めるということは、自分が何ものであるかを考えるということでもあります。
ここで著者は「兄弟たち」と呼びかけています。「兄弟たち」という呼び方は、キリスト教会の初期から一般的に用いられていました。ですからここもまた一般的な呼びかけのように見てしまいやすのですが、実はそうではないのです。これは先週お読みしたところに関わっているのです。
先週、私たちはイエス様が私たちの兄弟となってくださったことについて読みました。それは第一には私たちと同じ人間になってくださったということです。私たちが血と肉を備えているように、イエス様もまた血と肉を備えられたと書かれています。イエス様は私たちの苦しみも死も共有してくださいました。そのようにイエス様は「受肉」において、私たちの兄弟となってくださいました。
しかし、この著者が詩編22編を引用して、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」と語っている時、彼が念頭に置いていたのはそれ以上のことだったのです。ただ受肉されたイエス様が私たちと同じ地平に立ってくださったというだけでなく、本当の意味で私たちを御自分の「兄弟たち」にしてくださったということなのです。私たちは「聖なる兄弟たち」なのです。「聖なる」とは神のものでありキリストのものであるということです。それは私たちが何か条件を満たしたからということではなく、純粋に「天の召し」によるものです。召しによって、神の家族とされ、キリストの兄弟とされ、それゆえに互いに兄弟と呼ぶ者とされたのです。まずこの呼びかけを受け止め、この事実を受け止めた上で、私たちは大祭司イエス様のことを考えるのです。
そのイエス様について何が言われているのでしょう。まず語られているのは「忠実だった」ということです。「イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」。御自身を立てた方とは、父なる神のことです。イエス様は、「使者」すなわち、父なる神に遣わされた御方として、忠実にその使命を果たされたのです。その忠実さということで私たちが考えますのは、「十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)、ということでしょう。しかし、ここで著者は、イエス様の忠実さを、モーセを引き合いに出して、「神の家」との関わりにおいて語っているのです。「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは…忠実であられました」と言われているのです。
ここで「家」とは、もちろん人が住むための建物を指す言葉ではあるのですが、ヘブライ語においては、同時に「家族」をも意味します。ですから「神の家」と言えば「神の家族」という意味になります。ここでの表現は民数記12:7によるものです。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者(直訳「わたしの家」)すべてに信頼されている」(民数記12:6‐7)。神の民イスラエルが、「わたしの家」すなわち神の家族と呼ばれているのです。モーセはその家族の中で忠実に仕えたのです。イエス様も、神の家族のために遣わされ、神の家族のために、父なる神に対して忠実であることを現されたのです。
そのように神の民との関わりにおいて、イエス様とモーセには類比を見ることが許されるでしょう。しかし、この著者はさらに進んで、イエス様がモーセにまさることを語り始めるのです。「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです」(3‐4節)。
モーセはあくまでも神の民の一人です。家族の一部であり家の一部なのです。それ以上ではあり得ません。一方、イエス様は人間となられましたが、御子なる神であり、「御子によって世界を創造された」(1:2)と書かれていたように、万物の創造に関われた神なる御方です。ですから、同じように神の家、神の家族に関わるにせよ、同じように「忠実である」と語られているにせよ、その関わり方は決定的に異なるのです。
モーセについては次のように語られています。「さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが」(5節)。「仕える者」というのは、奴隷とか召使いという意味の言葉です。モーセは、いわば召使いとして家に仕えていたのです。それに対して、イエス様については次のように言われています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」(6節)。キリストは遣わされた方に忠実であられました。それは十字架の死に至るまでの従順によって示されました。そのように忠実であられたのは、復活し神の右に挙げられた方として、神の家を忠実に治める御方となるためでした。その意味において、キリストはモーセにまさるのです。そして、私たちはそのキリストによって兄弟と呼ばれているのです。
さて、これがどうして「試練」との関わりにおいて重要なのでしょう。このことにおいて著者が言いたいのは、「あのモーセに率いられて荒野を旅した人々でさえ、約束の安息に入るために信仰と希望とをもって従って行ったのだ。ましてや、このイエス様に導かれて栄光に向かって旅する私たちは、しかも旅する神の家族において御子の兄弟とされている私たちであるならば、なおさら確信と希望を持ち続け、従っていくべきではないか」ということなのです。そうであってこそ、私たちはまことに「神の家」であると言えるのです。私たちもまた、試練においてこそ、このモーセにまさるイエス様に目を向けるべきなのです。