2023年6月14日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 3:7~19

 ヘブライ人への手紙 3:7‐19

 先週は3章の前半をお読みしました。そこには、イエス様がモーセにまさるということが論じられておりました。そのことを通して著者が言いたかったのは、要するに、「あのモーセに率いられて荒野を旅した人々でさえ、約束の安息に入るために信仰と希望とをもって従って行ったのだ。ましてや、このイエス様に導かれて栄光に向かって旅する私たちは、しかも旅する神の家族において御子の兄弟とされている私たちであるならば、なおさら確信と希望を持ち続けて従っていくべきではないか」ということだったのです。

 私たちはあのモーセにまさる方に率いられ、さらにまさった約束をいただいて旅をしているのです。ですから、どんなに困難な道のりであっても絶対に脱落してはならないのです。そのために必要なのは「確信と希望に満ちた誇りを持ち続ける」ことなのです。そのためには、先導して下さる方から目を離してはならないのです。「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と勧められているのです。

 さて、そのような関連で引用されているのが7節から11節までに記されている詩編です。これは詩編95編7節から11節までの引用です。ギリシャ語訳からの引用ですので、少し言葉が異なっています。しかし、内容は明瞭ですので問題はないでしょう。これはモーセに率いられたイスラエルの民が荒野を四十年間放浪した時のことを題材とした詩編です。まずこの引用元の詩編について考えてみましょう。

 神様はイスラエルをエジプトから救い出され、彼らと契約を結び、彼らを神の民とされました。これは一方的な神様の恵みでした。恵みによって救われた彼らは、約束の地に向かって歩み出しました。それは最終的に神の安息にあずかるという約束を与えられたということをも意味しました。

 しかし、実際にエジプトを出た者のうち、約束の地に入れたのはヨシュアとカレブだけでした。もちろん、四十年経ったのですから、第一世代が途中で死んでしまったとしても不思議ではありません。また、その子孫は約束の地に入ったのですから、結局イスラエルは約束の地に入れたとも言えます。しかし、この詩編はそのように荒れ野における出来事を見てはいないのです。多くの者が荒れ野で死んでしまったのは、自然なことではなく、神の裁きであったと見るのです。詩編95編の詩人は、かつての出来事を通して神の御声を聞いたのです。「そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と」。

 もちろん、それはただ昔の人々を断罪することに目的があるのではありません。この詩編は警告を与える意図で書かれているのです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」と警告されているのです。詩編95編全体は、そのような意図を持った詩なのです。

 ここで「今日」と言われています。昔の人々がかつてどうであったかが最終的に重要ではないのです。今日、これを聞いている人がどのように応答するかが重要なのです。問題は「今日」なのです。

 ヘブライ人への手紙の著者がそのような詩編を引用しているのも、この手紙を読む人々にとっての「今日」があるからです。彼らが聞かなくてはならない呼びかけがあり、警告があるのです。その警告の内容は16節以下において解説されています。「いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか」(16‐18節。そして19節に結論が続きます。「彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことが私たちに分かるのです。」

 不信仰とは具体的にどういうことでしょうか。少し遡って12節には次のように書かれていました。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」(12節)。不信仰とは、要するに、生ける神から離れてしまう事なのです。心をかたくなにして神から離れてしまうことなのです。つぶやいて、疑って、神様から離れてしまうことなのです。

 結局これが詩編95編に語られている、かつてのイスラエルの問題だったのです。そして、ヘブライ人への手紙の著者は、彼にとっての「今日」に、同じように不信仰が教会の差し迫った問題であることを覚えつつ、この詩編を引用して語っているのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。私たちにも、私たちにとっての「今日」があるのでしょう。かつての教会が経験したような具体的な迫害は迫っていないかもしれません。しかし、日常の様々な困難が来たる時に、つぶやいて、疑って、生ける神から心が離れてしまうことは起こり得ます。実際、洗礼を受け、契約に入れられ、神の民とされ、永遠の御国が約束されたのに、途中で生ける神から離れてしまった人々は決して少なくありません。私たちもそうならないとどうして言えるでしょうか。ですから、今日の箇所で勧められている言葉は、他ならぬ私たちへの言葉でもあるのです。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」

 ではどうしたらよいのでしょう。13節にこのように書かれています。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励ましあいなさい。」私たちはこの旅路にある「今日」という日、互いに励ましあいながら進んでいく必要があるのです。

 ところで、この「励ましあう」ということは何を意味するのでしょうか。実は、これは後に繰り返し出てくる勧めなのです。そして、この勧めには特別な意味合いがあるのです。10章24節、25節を御覧ください。「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」

 私たちはどこで励まし合うのでしょうか。使者であり大祭司であるキリストを中心とした交わりの中において励まし合うのです。その中心は、キリストが誰であるかが語られ、キリストの福音が語られ、キリストがパンと杯において分かち合われる場、すなわち礼拝の場なのです。

 礼拝を中心とした交わりにおいて初めて、私たちの言葉がお互いの信仰を支え合うことになるのです。ですから、福音を聴き、パンと杯を分かち合うために「集まる」ということが、どうしても重要になるのです。私たちは集まらなくてはならない。集会を軽んじてはならないのです。

 私たちは自分を過信してはなりません。神から引き離す力を、罪の力をあなどってはなりません。まさに神の恵みが目に見える形で現れ、奇跡的にエジプトを脱出させていただいた民でさえ、脱出の直後からつぶやきはじめたのです。これが罪の力なのです。あなどってはなりません。キリストにある交わりの中で互いに励まし合いつつ、主のまったき安息へと向かいたいと思うのです。

(祈り)

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