ヘブライ人への手紙 2:10-18
先週お読みしたところでは、詩編8編が引用されていました。もともとは人間について、これを神が顧みたもうことの驚きをうたったものですが、ヘブライ人への手紙は、これをメシアにおいて実現する預言の言葉として読んでいます。そして、「すべてのものを、その足の下に従わせられました」(8節)という言葉を、1:13に引用されている詩編110:1と同様、キリストの全き支配を指し示している言葉として受け止めているのです。彼らはキリストの支配する世界、そこに目を向けて生きなくてはならないのです。そうでなければ押し流されてしまうのです。
しかし、キリストの支配を彼らはまだ見ていないことも事実です。それゆえに、これを書いている著者も、読んでいるキリスト者も、皆、苦しんでいるのです。そこでこの著者は、いまだ実現していないことではなく、既に見ていることを指し示すのです。それはキリストの十字架と復活、そして昇天です。キリストは既に、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のです。
ここで著者は、キリストが栄光と栄誉の冠を授けられる前に、十字架の苦しみを受けなくてはならなかったことをあえて語っています。その苦しみとは何のためであったのでしょうか。9節には、「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」のだと書かれています。今日は、キリストが苦しみを受け、すべての人のために死んでくださったことについて考えてみましょう。
「すべての人のために」とはどういう意味でしょうか。私たちがまず考えるのは、「すべての人に代わって」という意味においてでしょう。私たちの罪を代わりに背負い、裁きを受けてくださった。その意味で確かに、キリストは「すべての人のために」、すなわち私たちのために、死んでくださったのです。
しかし、今日の箇所における強調点は、そこにではなく別なところにあるようです。10節以下で、「すべての人のために」について、さらに言葉を加えて次のように語っているのです。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方にふさわしい事であったからです」(11節)。要するに、イエス様は完全な者とされるために、苦しみを受けられたのだ、と言うのです。
「完全な者とされるため」と聞きますと、イエス様はそれまで不完全だったのか、という疑問が当然湧いてきます。イエス様は罪のないという意味においては完全であったのであって(4:15)、罪が除かれて完全になるという意味ではあり得ません。ではどのような意味で、苦難を通して完全にされなくてはならなかったのでしょうか。そこで私たちは、イエス様が「彼らの救いの創始者を」と語られていることに注目したいと思うのです。イエス様は罪なき完全な御方なるためではなく、「救いの創始者」として「完全な者」、言い換えるならば「相応しい者」とされなくてはならなかったのです。
ここにある「創始者」と訳されている言葉は、いろいろに訳し得る言葉です。これは隊列の先頭にいる導き手をも意味する言葉です。つまり「救いの創始者」で間違いないのですが、それだけでなく、むしろ、その後に私たちを引っ張っていく先導者という意味合いの方が重要なのです。「多くの子らを栄光へと導くために」と書かれているとおりです。
つまりキリストは、御自分が「栄光と栄誉の冠を授けられ」、栄光にあずかっただけでなく、私たちもまたその後に続き、栄光にあずかることができるように道を開いて下さった「救いの創始者」であると同時に、そこに導いてくださる先導者なのです。
先導者として務めを果たすためには、先導者と先導される者との関係が重要になります。先導の仕方にもいろいろあるからです。父なる神は、キリストを完全な先導者とするために、御子を私たちと全く同じ人間とされたのでした。キリストはその神の計画を受け取られ、まず私たちの兄弟となられたのです。主は私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさらなかった。そのことが詩編22:23の引用を用いて語られています。
主が私たちの兄弟となるということについては、さらに次のように語られています。「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。」それは罪と死と悪魔の支配するこの世界のただ中に飛び込んでくることを意味したのです。それは悪魔の支配のもとに苦しんでいる私たちと苦しみを共有し、死をも共有することを意味しました。
それは先導者として完全であるために、どうしても必要なもう一つのことと関係しています。先導者なるためには、ただ民の一人となるだけでは十分ではないのです。民を導き出すためには、束縛を打ち砕き、自由にしなくてはならないのです。先導者は解放者でもなくてはならないのです。出エジプトの出来事を考えてみてください。モーセはエジプトのファラオの子として育てられた王子でありましたが、彼が主によって遣わされた時、彼はファラオの子ではなく、ヘブライ人の一人として遣わされました。先導者であるために、彼はあくまでもヘブライ人の一人である必要がありました。しかし、それだけでは導き出すことはできません。彼はファラオと闘わなくてはなりませんでした。ファラオの支配を打ち破り、民を解放する必要があったのです。
イエス様も同じことをしてくださったのです。イエス様が肉と血を備えられ、人間の一人となって苦難をも死をも共有してくださった。それは、「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(14節)と書かれています。キリストは、人間として自ら死の中に降りました。そして、死を打ち破って復活したのです。悪魔はキリストの復活を留めることはできなかったのです。滅ぼすことはできなかったのです。
しかも、ここで大事なことは、キリストが人間の一人として、人間の代表として、死の力、悪魔の力に打ち勝ってくださったということです。死を打ち破った最初の人となってくださったのです。私たちは、死によって人間を滅ぼそうとする悪魔の業が人間の代表によって打ち破られたことを知ったのです。だから、もはや悪魔は人間を恐怖をもって支配することはできないのです。死の恐れをもってさえ縛ることはできないのですから。そのようにキリストは私たちを悪魔の支配から解放し、先立つ御方として命に向かって先導してくださるのです。
そしてさらに、イエス様が私たちと同じ人間となり、苦しみと死を共有してくださったのは、神の御前において憐れみ深い大祭司となるためでありました。この点については、後に詳細に展開されることになりますが、ここでは簡略に次のように記されています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(17‐18節)。
私たちを全き救いへと導く創始者・先導者キリストは、ただ私たちをサタンの支配から解放し、道を開いて先立って進んで行かれるだけではありません。導かれて進む荒れ野の旅において、真に憐れみ深く私たちに伴ってくださり、私たちを助けてくださる御方です。なぜならキリストは私たちと同じように試練を受けて苦しまれた御方だからです。だから私たちが受ける試練をご存じなのです。そして、試練は誘惑でもありますから、私たちがその試練の中でしばしば罪に陥ってしまう。そのこともご存じなのです。そのような御方が、自ら私たちのための罪の償いのいけにえとなり、そのいけにえを献げてくださった大祭司として、その犠牲に基づいて常に執り成してくださるのです。
だから私たちは希望を持ち続けるのです。生ける神から離れず、互いに励まし合いながら、聞いてきた福音の言葉にしっかりと錨を降ろして生き続けるのです。