2023年5月24日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 2:1~9

 ヘブライ人への手紙 2:1‐9

 「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(1節)。

 押し流されてしまう、ということが語られているのは、押し流される可能性があるからです。そのような状況があるのです。それは先々週お話しましたとおり、迫り来る迫害です。より広い言い方するならば、信仰生活を破壊し、神から引き離そうとする様々な困難です。そのような意味では、私たちにも襲い来るかもしれないものです。

 そのような様々な困難に押し流されてしまわないために必要なのは、「聞いたことにいっそう注意を払う」ということです。「聞いたこと」と言うのですから、既に語られていることがあるわけです。1章1節以下には「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」と書かれていました。イエス・キリストを通して、神は最終的に、決定的な語りかけをなされたのです。

 御子は神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです。その御方が私たちの罪を贖い、神の右に座して私たちのために執り成していてくださる。私たちと神との間におられる唯一の仲保者です。その御方によって語られた言葉こそ、私たちを救う言葉、私たちに与えられた福音です。

 この救いの言葉は具体的な教会の宣教によって伝えられます。「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」(3‐4節)。そのようにして、このヘブライ人への手紙の読者にも伝えられたのであり、二千年後の私たちにも伝えられたのです。

 私たちは、この伝えられた福音の言葉に「注意を払わねばならない」のです。ある学者が大変興味深い説明をしていました。この「注意を払う」と訳されている言葉は、航海に関する用語として用いられた場合、「船の錨を降ろす」という意味になるそうです。そして、「押し流される」と訳されている言葉は、「漂流する」ことを意味するとのこと。ならば、ここで著者が言わんとしていることのイメージを生き生きと捉えることができます。逆風はやってきます。嵐はやってきます。その時に、しっかりと伝えられた福音の言葉に錨を降ろしていなければ、簡単に流されてしまって漂流し、破船してしまうのだ、ということです。

 では福音の言葉に錨を降ろすとはどういうことでしょう。これはむしろ逆に、「錨を降ろさないで流される」ということがどういうことかを考えた方が良いかもしれません。今日の箇所では、こう書かれています。「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(2‐3節)。

 「天使たちを通して語られた言葉」というのはモーセの律法のことです。律法はシナイ山においてモーセに与えられたのですが、その時に天使が仲介したと考えられていたのです。確かに、そのように与えられた律法は神の言葉ではありましたが、最終的な言葉ではありませんでした。最終的な言葉、救いに関わる言葉は、天使たちにまさる御方、イエス・キリストによって与えられたのです。このイエス・キリストによってもたらされた大いなる救いにむとんちゃくであること、それが「錨を降ろさない」ということなのです。そうすると漂流してしまうのです。

 私たちは、キリストによって啓示された大いなる救いにむとんちゃくであってはならないのです。「いいえ、決してむとんちゃくではありません」と私たちは言うかもしれません。しかし、その場合、「救い」が何を意味するかが重要なのです。教会の宣教を通して与えられる救いが、単にこの世における苦しみを逃れることでしかないならば、迫害を耐え忍んででも、ある場合には命をかけてでも信仰を守るということは意味をなさないでしょう。ただこの世におけることだけを考え、この世的な救いに錨を降ろしているだけならば、確かにこの世的な苦難をもたらす嵐が来たら、簡単に吹き流されて漂流してしまうかもしれません。

 私たちは、キリストを通して神が語ってくださった大いなる救いにしっかりと錨を降ろさなくてはならないのです。そのためには、「来るべき世」に目を向けねばならないのです。来るべき世、それはキリストの治める世界です。そのことが6節以下に詩編8編の引用をもって語られています。

 ここでの引用はギリシア語訳聖書からなされているので、私たちが持っている詩編8編の言葉とは若干異なります。そして、もともと詩編8編は、人間について、これを神が顧みてくださることに驚きを覚え、その恵みを讃美している詩編です。しかし、ヘブライ人への手紙は、これを人間すべてが共有すべき讃美の言葉であると同時に、人間となられた御子、まさに人間の代表となられたキリストによって成就すべき預言の言葉として読んでいるのです。

 そこで重要なのは、8節の「すべてのものを、その足の下に従わせられました」という言葉です。これは1:13で引用された、詩編110編の言葉と同じように、キリストの全き支配を示しているものとして引用されているのです。

 しかし、彼はこのキリストの支配を語る言葉を引用した直後にすぐさま語るのです。「『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」そうです、だからこそ迫害もあるのでしょう。多くの人が罪の支配のもとに苦しんでいるのでしょう。この世の有り様を見るならば、いったいどこにキリストの支配があるのか、と問わざるを得ない。それは今の私たちにおいても同じであろうと思います。

 それゆえに、この著者は、まだ見ていないものではなく、既に見たものに心を向けさせるのです。「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。「死の苦しみのゆえに」とはキリストの十字架を指しています。9節の終わりに「すべての人のために死んでくださったのです」とも書かれています。

 そして、「栄光と栄誉の冠を授けられた」とは、キリストの復活と昇天を指しています。まだ私たちは万物がキリストに従っているようなキリスト支配の世界を見てはいません。完全な救いの世界を見てはいません。しかし、信仰によって既に見せられていることがあるのです。キリストは既に栄光の中にあるのです。

 キリストにおいて既に起こったことは、最終的にキリストにおいて実現することへの希望を与えるものです。私たちは、この悪しき力の支配する暗闇の世界が最終的な姿であると思ってはならないのです。既にキリストは復活されたからです。

 そして、さらに言うならば、この手紙の著者は、あえてキリストが「栄光と栄誉の冠を授けられた」こと、すなわち復活と昇天が、「死の苦しみ」、すなわち十字架の先にあったことを語るのです。それは私たちにとっても今の世における苦しみが最終的に与えられているものではないことを示しているのです。その苦しみの先にあるキリストの支配する「来るべき世」、そして、そこにおける全き救いがあることを指し示しているのです。私たちはその大いなる救いを告げる福音の言葉に、しっかりと錨を降ろしていなくてはならないのです。

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