2023年5月3日水曜日

祈祷会用:ユダの手紙 14~25

ユダの手紙 14‐25

 今日はユダ書の後半です。問題になっているのは、教会に入り込んできた異端の教師たちであったことは先週お話ししたとおりです。ユダは特にこの手紙では教えそのものよりも、彼らの乱れた生活を問題にしています。教えそのものが広がるよりも、不道徳な行いはもっと速く広まり、影響を及ぼすからです。それゆえに、この手紙においては、ここまで言うかと思えるほどに激しい言葉が異端の教師たちに向けられているのです。

 今日はその続きですが、14節ではエノクという名前が出て来ます。エノクというのは、唯一「死んだ」と書かれていない人物です。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)と記されているのです。そこから聖書における代表的な義人の一人とされ、彼にまつわる書物も書かれていました。ユダがここで引用しているのは、当時親しまれていた「エノク書」という書物です。

 異端の人たちは、この世に属する体をもって何を行おうが、永遠なる霊的な救いとは無関係であると教えていました。しかし、ユダはそうではないことをエノク書を引用して語っているのです。すなわち、神を恐れぬ不信心な生き方が最終的に裁かれること、神は人がこの世で行い語ることを問題にされることを語っているのです。彼が引用しているのは聖書の言葉ではありませんが、もちろんこれは聖書もまた語っていることです。

 ところで興味深いのは偽りの教師たちの行いと言葉について次のように語られていることです。「こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます」(16節)。

 「彼は不平不満を鳴らし」ています。「自分の運命について」となっていますが、具体的には自分の人生や日常について不平不満を鳴らすという意味合いなのでしょう。その一方で、彼らは「欲望のままに」ふるまっているのです。彼らにとってこの世に属する道徳律は意味がないのですから。

 しかし、なんとも皮肉な話です。欲望の赴くままに生きていながら、もう一方において生活は不平や不満だらけだったということです。しかし、それは理解できることです。欲望のままに生きるなら、その欲望は決して満たされることはないのです。欲望のままに生きられることを幸いと呼ぶならば、その人は決して幸いになることはありません。

 そして、もう一つ。大言壮語をしながらこびへつらっている。これもまた皮肉な話です。彼らは自らを大いなる者としながら、実際には自分の欲望の奴隷なのですから、その欲望を満たすために人に媚びへつらうことになるのです。

 さて、そのような偽教師たちが教会に入り込んで来ている中で、ユダの切なる願いは彼らが共に救いにあずかることだった、と前回申しました。ですから、彼らにこのように勧めるのです。「愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。』この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です」(17‐19)。

 このユダの言葉を理解するには、偽教師たちが自らを「霊の人」と呼んでいたことを知らなくてはなりません。彼らによれば、動物も植物も人間もこの世の命(プシュケー)を持っているのです。しかし、霊(プネウマ)は特別な人しか持っていない。そのように自らを位置づけて、いまだにこの世の命の使い方ばかり考え、「この世においていかに生きるか」などということを考えている人たちをあざけっていたのです。

 しかし、ユダは彼らを「霊の人」とは呼ばないのです。この世の欲望のままにふるまっている彼らこそ肉の人なのであって、この世の命しかもたず、神の霊を持たない者なのだ、と。そして、キリストを信じる人々に言うのです。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(20‐21)。あなたたちに与えられた「最も聖なる信仰」こそがよりどころだ、というのです。

 これは正統的な信仰、イエス・キリストの受肉と贖罪を信じる信仰を指していることは既にお話ししたとおりです。私たちの救いは自分が特別な体験をしたかとか自分が何か特別な人間になっているとか、そのようなことによるのではないのです。すべては神によるのです。私たちは自分にではなくて、神に寄り頼むのです。私たちの神との交わりにしても、私たちの祈りにしても、それが成り立つのは聖霊によるのです。私たちが滅びから守られるとするならば、それは神の愛によるのです。私たちが永遠の命を与えられるとするならば、それはイエス・キリストの憐れみによるのです。これこそが聖なる信仰です。その信仰をより所として生活するのです。

 そして、先週も触れましたが、大事なことは「共に救いにあずかる」ということなのです。ただ自分がそのような信仰に立てればそれでよいのではありません。自分の救いのことだけを考えていてはならないのです。ユダは言います。「疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。ほかの人たちを火の中から引き出して助けなさい。また、ほかの人たちを用心しながら憐れみなさい。肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい」(22‐23)。

 「疑いを抱いている人たち」とは、異端の教説によって正統な信仰を揺さぶられている人たちです。中には既に火の中に入ってしまっているような状態の人もいます。そのように信仰が危うくなっている人を批判するのではなくて、憐れみなさい、助けなさいとユダは言うのです。恐らくはしっかりと信仰に立っている人たちと、ぐらついている人たちとの間に亀裂が入っていたのでしょう。そのようなことは起こり得ることです。教会には様々な信仰の状態の人がいます。すべての人が健康な状態にあるわけではありません。そのような時、ともすると私たちは他者の状態をただ批判的に見るだけに留まってしまうのです。しかし、「共に救いにあずかる」ことを考えるならば、そうあってはならないのでしょう。もし相手が不信仰に陥っていたり、不健全な状態に陥っているならば、批判しているのではなくて、どうしたら信仰を励まし、あるいは倒れないように支え、あるいは火の中から助け出せるかを考えなくてはならないのです。

 もちろん異端の教説は他に影響を及ぼしますし、それ以上に不道徳な生活は他に強い影響を及ぼします。ですから、あえてユダは「用心しながら憐れみなさい」という言い方をしています。こちらが影響されないように、悪しきものに支配されないように注意しなくてはならない。

 しかし、基本は「憐れみ」の心です。それを失ってはならない。「肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい」という言い方はいささか「憐れみ」とは相反するように見えますが、実はそうではないのです。この文章は前の文にかかっているのです。「肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いながらも、(だからこそ用心することは必要なのだけれども)憐れみなさい」ということなのです。不道徳な生活、間違った教えなど、忌むべきものは忌むべきものとしなくてはならないのです。しかし、その本人に対する憐れみを失ってはならないのです。

 とはいえ、自分自身についても、他者についても、絶望的な思いになることもあるのでしょう。ユダも、またこの手紙を受け取った教会の信徒たちも同じであったに違いありません。それゆえに、ユダは最終的に救いを実現することのできる御方に目を向けさせるのです。私たちは、共に、喜びに溢れて、完全に清められた者として、栄光に輝く神の御前に立つことができる。神はそのことを実現することができるのです。

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