2023年5月10日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 1:1~14

ヘブライ人への手紙 1:1‐14

 今日から「ヘブライ人への手紙」を読んでいきます。「ヘブライ人」というのはユダヤ人です。ここに書かれていることは、旧約聖書の知識や祭儀に関する知識を前提としている論述が多いので、ヘブライ人に宛てられたものと考えられたのだと思われます。しかし、実際には、そのような旧約に関する知識は異邦人キリスト者にも必要とされていたのですから、必ずしもユダヤ人キリスト者だけを考える必要はないかもしれません。

 それよりも大事なことは、内容的に考えて、この手紙の読者が大きな迫害を知っているということです。彼らの指導者たちが迫害の中で死んでいったことを知っているのです。その迫害とは、恐らくは皇帝ネロの時代の迫害(紀元64年頃)であろうと思われます。そして、新たな迫害を予期している。そのような人々に宛てられて書かれているのです。

 その内容はこれから少しずつ読んでいくわけですが、そのメッセージを一言で表現するならば、「大祭司イエスのゆえに神に近づこうではないか」と言い表すことができるかもしれません。どうして、「神に近づく」ということが重要になってくるのかと言えば、既に述べたように、信仰生活を続ける上での困難があるからです。その意味においては、具体的な迫害が身近ではない私たちにとっても、やはり重要なテーマが語られていると言えるでしょう。私たちが信仰を保っていくことに大きな困難を覚える時、ヘブライ人への手紙を通して、「神に近づこうではないか」という語りかけが聞こえてくるに違いありません。

 そのような手紙の第一章を今日はお読みしたわけですが、ここにはかなりのスペースを割いて、「御子は天使にまさる」ということが書かれています。ここに書かれている話は、私たちにはあまり馴染みがないとも言えます。しかし、当時の教会にとっては大事なことだったのです。というのも、ユダヤ人の民間信仰には天使礼拝のようなものがずいぶん入り込んでいましたし、それが教会の中にまでもたらされることがあったからです。コロサイの信徒への手紙にも、「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」(コロサイ2:18)が出てきます。

 どうして「天使礼拝」というものが入り込んできたのでしょう。それは神の超越性が強調されたからなのです。神はあまりにも大いなる御方であり、人間は直接近づくことなど、とうていできない御方であるということです。直接近づくことができなければ、誰かに間に入って仲立ちしていただくしかありません。ですから、そこに天使が入ってくるのです。人間は直接神様を礼拝したり、語りかけたりすることができない。だから天使に語りかけて、天使を礼拝して、お伝えいただくという形になるのです。

 確かに神様に直接近づくことができないというのは正しいと言えるでしょう。神に自由にいつでも近づくことができると考える偶像礼拝よりはよほど健全な感覚であるとも言えます。しかし、それでもなお天使が仲立ちとなって神と人間との間が完結してしまうことには大きな問題があるのです。そもそも、人間が神に近づき得ないのは、ただ神の超越性のゆえではないからです。神が単に近づき得ないほどに畏れ多く偉大であるからではないのです。そこには罪の問題もあるのです。罪ある人間がどうして神に近づくことができるのか、という問題があるのです。それはなぜ御子が来られなくてはならなかったのか、なぜ天使ではなくて御子が仲立ちとならなくてはならないのか、ということと関わっているのです。

 そこでヘブライ人への手紙の著者は、まず御子がどのような御方であるのか、ということから語り始めます。第一に語られているのは、神は御子によって語られたということです。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1-2節)。

 聖書が私たちに示している神の姿は、語り給う神の姿です。人間が神に近づいて語りかける以前に、神御自身が「語り給う神」であるのです。神の側から自らを現されたのです。預言者を通して語られる神。旧約聖書を読みます時に、それはまさに罪ある人間に語り給う神であることが分かります。神は預言者を通して罪人に自ら近づいて、それこそ多くのかたちで、多くのしかたで忍耐強く語られたのです。

 しかし、神の語りかけはそれで完結することはありませんでした。それはあくまでも暫定的、断片的な語りかけだったのです。神は最終的に御子を通して語られたのです。単に預言者の言葉によってではなく、一人の人格を通して御自身を現されたのです。神様の完全な啓示が到来したのです。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(3節)でありました。

 なぜイエス様の言葉や教えだけが伝えられたのではなく、イエス様の物語が伝えられてきたのですか。それはイエス様の御人格、その御生涯そのものが、神の言葉の受肉そのものだからなのです。それをヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と表現しました。神がどのような御方であるかを知りたければ、イエスという御方を見なさい、ということです。イエス様を神の完全な啓示として受け入れ、この御子を通して父なる神を知る人をキリスト者と言うのです。

 この神の決定的な語りかけによって時代は画されました。古い時代、旧約の時代は終わりました。終わりの到来と共に、全く新しい時代が始まりました。既に決定的なことが起こってしまったのですから、この新しい時代は最終的な完成と安息へと向かう時代です。ただ完成と安息だけが残されているのです。天地創造物語で言うならば、7日目へ向かう途上にあるのです。「この終わりの時代には」とは、そういうことです。聖書的な表現によれば、私たちは、その終わりの時代に生きているのです。

 そして、御子について、もう一つのことが語られています。御子は「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」と語られています。

 なぜ天使ではなくて、御子が仲立ちとならなくてはならないのか。それは御子こそが私たちの罪を贖い、世の罪を清められた御方だからです。そして、御子が神の右の座に着かれたということが語られています。なぜ神の右の座が出てくるかというと、それは私たちのための「執り成し」と関係しているのです。パウロがローマの信徒への手紙で「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8:34)と語っている通りです。このことが、後に展開される一つのテーマを指し示しているのです。すなわち「大祭司イエス」です。

 神と人間との間に立つのは、天使や他のいかなる存在でもありません。仲立ちすることができるのは、私たちの罪を取り除き、私たちのために執り成すことのできる大祭司以外にあり得ないのです。また、その大祭司がおられるからこそ、私たちは全き安心をもってはばかることなく御座に近づくことができるのです。またそれゆえに、イエス様が教えてくださったように、神を「私たちの父よ」とも呼ぶこともできるのです。

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