テモテへの手紙二 1:8‐14
苦難を共に耐え忍んでください
本日の第2朗読ではパウロがテモテに書き送った手紙をお読みしました。パウロはこれを獄中から書き送っています。この時、テモテはエフェソの教会の牧会をしながら、パウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たっていたようです。そのテモテにパウロはこう書き送ります。「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」(8節)。
ある意味でとても不思議な言葉です。諸教会の指導者であったテモテが主を証しすることを恥じることなどあり得るのでしょうか。いわばパウロの愛弟子とも言えるテモテが、福音のために投獄されているパウロを恥じることなど、あり得るのでしょうか。「主を証しすること」は、直訳すれば「主の証し」ですから、これはキリストの十字架を指しているものとして読むこともできます。ならばなおさらです。テモテがキリストの十字架を恥じるようなことが、はたしてあり得るのでしょうか。
しかし、テモテが実際に「恥じて」いたかどうかは別として、その時のテモテの状態を考えるならば、パウロはどうしてもそのことを語らざるを得なかったのです。本日朗読された箇所の直前にはこう書かれています。「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(6‐7節)。ここで「神の賜物」と呼ばれているのは牧師としての務めです。それを「再び燃え立たせるように」と言われているということは、要するに《消えかかっていた》ということです。
かつては神から与えられた務めに燃えていたのです。しかし、今やテモテは燃え尽きる寸前のような状態になっていました。どうしてそうなってしまったのか。テモテに宛てられた二つの手紙を読みますとある程度想像がつきます。テモテの務めは困難を極めていたのです。エフェソの教会には異端の教師の問題がありました。テモテ自身が年若く未熟であったということもありました。彼自身の体の弱さという問題もありました。それらの問題に直面して、思うように事は進まなかったのでしょう。そのような中でかつて燃えていた火も消えかかっていたのです。
もちろん務めそのものは「神の賜物」であることは分かっています。キリストに召されて牧者としての務めを与えられていることも分かっています。しかし、現実に苦しいものは苦しいのです。もう疲れてしまっているのです。神の御心はどうであれ、困難からは誰だって逃げたいと思うものです。何もかも捨てて故郷のリストラに帰ってしまいたい。そう思ったことは恐らく一度や二度ではなかったに違いない。パウロにはテモテの気持ちが手に取るように分かっていたのです。だからこそパウロはここでテモテに言うのです。「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」と。
考えてみてください。もしここでテモテが逃げ出してしまうならば、苦難を耐え忍んで獄中にいるパウロについて、「彼とわたしとは無関係です」と言っているようなものではありませんか。さらに言うならば、十字架の苦しみを背負われたイエス様についても「彼とわたしとは無関係です」と言っているのと同じでしょう。ならば結局は主の十字架も福音のために囚人となっているパウロの苦しみをも「恥としている」のと変わらないことになってしまいます。
だからパウロは言うのです。「むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と。もし主の証し、主の十字架を誇りとするならば、またこのように囚人となっている私を誇りとしてくれるなら、神の力に支えられて私と苦しみを共にしてください。あなたには力と愛と思慮分別の霊が与えられているではないか。だから苦しみを共に耐え忍んでください。そのようにパウロは言っているのです。
まことに身につまされる言葉です。私たちもまた、困難に直面するとき、苦難の中に置かれるとき、できることなら逃げ出したいと思うことはいくらでもあるからです。しかし、このレントにおいて主の十字架を思う時、またパウロをはじめ、キリストを宣べ伝えるために苦しみを耐え忍んできた代々の聖徒たちを思う時、私たちの心にもこの言葉が響いてまいります。「神の力に支えられて、苦難を共に耐え忍んでください」。
神の力に支えられて
苦難から逃げ出さないで、そこに留まって耐え忍ぶことができるとするならば、それはパウロの言うように、「神の力に支えられて」のことです。私たちは逃れるためではなく、担わなくてはならないことを担うためにこそ、神の力を求めねばならないのです。そして、その神の力は信仰によって私たちに与えられるのです。主に信頼し、主を待ち望む時、私たちを支え抜く神の力は必ず与えられるのです。
今日の箇所でもパウロが次のように《神への信頼》を語っています。「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」(11‐12節)。
パウロは福音の宣教者として任命されました。神から福音をゆだねられたのです。ゆだねられたものを守るのは、ゆだねられた側の責任ではないでしょうか。しかし、パウロはここでとても不思議なことを言っているのです。神はパウロに福音をゆだねた。けれど、それを守ってくださるのは神御自身である、と。言い換えるならば、パウロに使命と務めを与えられた神は、自ら責任をもってその使命を遂行させてくださるということです。いつまででしょう。「かの日まで」。つまり終わりの日までです。そうです、最後まで神が守ってくださる。パウロはそのことに信頼しているのです。
聖書に見るように、パウロは《燃え尽きない人》でした。その理由を私たちは今日知らされています。神が託されたのならば神が守ってくださる。神が与えた使命ならば神が全うさせてくださる。耐え忍ぶことが神の御心ならば、神が責任をもって支えてくださる。そのようにパウロは「自分が信頼している方を知っている」。だから燃え尽きないのです。すべては自分にかかっているなどと、パウロは微塵も思っていないのです。すべては神の御業にかかっている。それが分かっているのです。人間がまず心を向けるべきこと、それは神に信頼することなのです。
すべてに先行する神の恵み
考えてみますなら、そもそも私たちが何かをする以前に、キリストを信じる者としてここに存在していること自体、私たちの行いによるのではなくて神の恵みの御業なのでしょう。燃え尽きかけているテモテもまた、そのことを思い起こさなくてはならないのです。
ですからパウロは9節においてこう語っているのです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」。そして、さらに「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです」とパウロは言うのです。
随分おかしなことが書かれていると思いませんか。「キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」という部分はまだ分かります。この地上に人となってくださった御子キリストにおいて、神の恵みは完全に現れた。それはまだ分かります。しかし、その前に書かれていることはどうですか。「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」。「永遠の昔に」とまで言われると、私たちの頭は到底ついていけません。
しかし、パウロがあえてこのような言葉を用いるのは、このような言葉をもってしか、恵みの何たるかは表現できないからなのです。要するにパウロが言いたいのは、すべてにおいて神の恵みが先にあるということなのです。「永遠の昔に」と言ってしまえば、その前はないのですから。とにかく初めに恵みがあるということです。恵みから始まっているということです。
私たちは常にギブ・アンド・テイクの世界に生きていますから、恵みについてさえも、「わたしが~をしたから恵みが与えられたのだ」という思考になってしまいやすい。しかし、「~をしたから」ではないのです。「この恵みは、永遠の昔に…与えられた」のですから。恵みが無条件に何よりも先にある。パウロはいつもその事実に目を向けてきたのです。そして、その恵みに目を向けさせようとしているのです。
そのような神、無条件にまず恵みを与えてくださった神が、福音のために私を任命してくださった。そのような神が福音をゆだねてくださった。そして、すべてを恵みから始められた神だから、無条件に最後までゆだねられたものを守ってくださるはずです。パウロは自分が信じている方が、そのような方であると知っているのです。だから苦しみを受けていたとしてもそれを恥とはしない。そこにあえて留まるのです。与えられた使命を放棄して逃げだそうとは思わない。そして、なおも燃え尽きてしまうこともない。
テモテにもそうあって欲しいと願っているのです。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」(13‐14節)。テモテは確かに「ゆだねられている良いもの」を守らなくてはならない。テモテには与えられている務めがあります。しかし、それを実現するのは恵みによってすべてを始めてくださった神御自身です。神自ら私たちの内に住まわれて、与えられた務めを全うさせてくださる。だから「わたしたちの内に住まわれる聖霊によって」なのです。すべてに先行する神の恵みへの信頼、そして、わたしたちの内に住まわれる聖霊への信頼。それこそが、私たちにとっても、燃え尽きてしまわないために必要なことなのです。
(祈り)