2022年3月13日日曜日

「初めの愛は今どこに」

エレミヤ書 2:1-13

花嫁のときの愛
 今日の箇所においては、主はエレミヤをエルサレムの人々に遣わして、次のように語らせています。「主の言葉がわたしに臨んだ。行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」(1‐2節)。

 「エルサレムの人々」というのはもちろん代表であって、主が語りかけておられるのはユダの人々全体、さらにはすでに滅びてしまった北王国をも含めてイスラエルの民全体と見ることができます。イスラエルと主との関係がまず結婚関係として語られているのです。それはかつて北王国の預言者ホセアが語っていたことでした。主はここでまず新婚時代に言及します。それはイスラエルがエジプトから導き出されて荒れ野を旅していた時代のことです。

 しかし、ここで主が「あなたの若いときの真心」や「花嫁のときの愛」や「荒れ野での従順」について語っているのは、ある意味では驚くべきことです。というのも、実際に彼らがエジプトを脱出し、荒れ野を旅していた時、彼らは決して愛と従順の見本のような民ではなかったからです。

 詳しくは出エジプト記14章以下をお読みください。彼らはエジプトを脱出することはできたのですが、エジプト軍は彼らを追いました。そして、ついに彼らは、「前は葦の海、後ろはエジプト軍」という絶体絶命の危機に直面することになります。しかし、ご存じのとおり、神は葦の海を二つに分け、イスラエルの民は海の中の乾いた地を進んで渡って行くことになりました。続く15章には、主によって救われた彼らの賛美の歌が記されています。

 しかし、彼らは葦の海を、讃美をもって渡ったにもかかわらず、荒れ野に入るやいなや不平を言い始めるのです。そして、挙句の果てには、エジプトにいたほうが良かったとさえ口にするのです。言ってみれば結婚しなかった方がよかった、と言っているようなものです。さらにはモーセが山の上で十戒をさずかっていたときに、山の下では金の子牛を作って礼拝していたのです。これは結婚関係で言うならば、不倫以外の何ものでもありません。

 にもかかわらず、主は荒れ野の彼らの姿に、神への愛と従順を見てくださっているのです。「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と主は言われるのです。「思い起こす」とは、「覚えている」ということです。忘れてはいないということです。主はどんなに不完全であっても、未熟なものであっても、主を信じて従い始めた時の愛と従順を見ていてくださいました。そして、それを覚えていてくださるのです。主は初めの愛を覚えていてくださる。

 実際、主は荒れ野において、彼らとの関係を重んじてくださったのです。「イスラエルは主にささげられたもの、収穫の初穂であった。それを食べる者はみな罰せられ、災いを被った、と主は言われる」(3節)と書かれているとおりです。農夫は最初に収穫したものを主のものとして捧げます。ささげられたなら、それは主のものであって、自由に食することはできないのです。それと同じように、エジプトから導き出されたイスラエルの民を主は、ご自分のものとして大切にされたのです。他の民族や国々が損なうことのないように、ご自分の民として守られたのです。

 彼らは、もともとエジプトの奴隷であった人々です。そのような彼らが、常に外敵にさらされながら、どこかに定住することもなく、食料も水も十分に確保することが困難である荒れ野を、何十年も移動しながら存続してきたのです。そのこと自体、まことに驚くべきことです。

 それは彼らが賢かったからでも強かったからでもないのです。彼らが主に捧げられた収穫の初穂のような存在だったからです。主と結婚した花嫁のような存在だったからです。主はその事実を重んじてくださったのです。繰り返しますが主はどんなに不完全であっても、最初の愛を見ていてくださったのです。最初の従順を見ていてくださったのです。そして、その最初の関係を忘れることはなかったのです。忘れるのはいつだって人間の方です。離れていくのは人間の方なのです。

どうして離れていったのか
 それゆえに主は言われるのです。「ヤコブの家よ、イスラエルの家のすべての部族よ、主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの先祖はわたしにどんなおちどがあったので遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった」(4‐5節)。「空しいもの」とは偶像のことです。彼らは真の神を離れて神ならぬものを追い求めるようになったのです。

 「わたしにどんなおちどがあったので」と主は言われます。実際には、主の側に落ち度があったわけではありません。いや、それどころか、主がなさったのは彼らをエジプトから導き出され、彼らを守られ、約束の地へと導き入れたということです。「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き、味の良い果物を食べさせた」(7節)。

 しかし、定住する場所が与えられたとき、豊かさが与えられたとき、彼らは荒れ野において彼らを導き、守り、生かしてくださった主をもはや求めなくなったのです。「彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか、わたしたちをエジプトの地から上らせ、あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地、乾ききった、暗黒の地、だれひとりそこを通らず、人の住まない地に導かれた方は』と」(6節)。

 安心して生きられる場所が与えられることは良いことです。安定した生活や豊かさそのものが悪なのではありません。それらはここに書かれているように主が与えてくださったものなのです。私たちが聖書の最初に見るように、エデンの園は豊かな園だったのです。人は主が与えてくださる豊かさと平和を楽しんだらよいのです。それを「主が与えてくださった」ものとして。しかし、残念ながら人はそこで「主が与えてくださった」ということを見なくなるのです。与えられた豊かなものには目を向けるけれども、主御自身を求めることはなくなるのです。もはや「主はどこにおられるのか」と尋ね求めなくなるのです。

 「主はどこにおられるのか」というのは、主御自身を追い求める問いです。荒野にあったときも、暗黒の地にあったときも、いつも共にいて導いてくださった、あの主御自身を追い求める問いです。本当は、与えられたものよりも、与えてくださった御方がいつでも共にいて導いてくださるという事実の方が大事であるはずではないですか。花嫁にとっては、本当は、花婿が与えてくれるものよりも、花婿自身が共にいてくれることの方が大事なはずではないですか。少なくとも、花婿にとっては花嫁が大事だったのです。しかし、花嫁にとっては、花婿が与えてくれるものの方にしか目が向かない。豊かに与えられる中で、「主はどこにおられるのか」とはもはや尋ねないのです。

 そのように、与えられるものにしか目が向けられなければ、人間の欲望はいくらでも肥大化していきます。与えられれば、与えられるほど欲望は肥え太っていくのです。そのように、何が与えられるか、何が得られるかにしか関心の向かない人間の欲望。その欲望が宗教的な装いをまとったものを「偶像礼拝」と言うのです。それが旧約聖書に見るバアル礼拝であり、表向きには主の名によって行われているバアル化した礼拝です。そこではもはや祭司たちでさえ、「主はどこにおられるのか」と尋ねない。主がご覧になって嘆いておられたのは、そのような現実でした。

初めの愛に立ち戻れ
 そのような彼らに主は言われます。「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き、味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入るとそこを汚し、わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた」(7節)。彼らに与えられた実り豊かな地、まさに恵みによって彼らに与えられた生活の場は、まさに神と共に生き、神への感謝を目に見える形で表し、神の御心を行って生きるために与えられた場所であったはずでした。私たちの礼拝における派遣の言葉を用いるならば、まさに「主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕える」そのような神の民として生きるための土地であり生活の場だったはずなのです。

 しかし、「お前たちはわたしの土地に入るとそこを汚し、わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた」と主は言われます。せっかく与えられたその土地を、彼らは汚してしまったというのです。忌まわしいものに変えてしまったというのです。そこで、私たち自身も考えざるを得なくなります。私たちはどうでしょうか。私たちに恵みとして与えられたこの土地、この教会堂、共に生きるように与えられている教会生活という場、そこにおいて私たちはどう生きているのでしょうか。私たちそれぞれに与えられている生活の場はどうでしょうか。目を開いてみれば神の与えてくださった豊かさに囲まれて生きているその場において、私たちはどう生きているのでしょうか。

 「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と主は言われます。しかし、彼らはこの初めの愛から離れ、せっかく恵みによって与えられたその土地を汚してしまいました。この箇所を読みますと、新約聖書の一つの箇所が思い起こされます。ヨハネの黙示録において、キリストがエフェソの教会に語り掛けている言葉です。説教題に用いている「初めの愛」という言葉は、ヨハネの黙示録から取りました。新共同訳では「初めのころの愛」と訳されています。

 主は言われます。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(黙示録2:4-5)。

(祈り)

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