コロサイの信徒への手紙 4:7‐18
パウロは手紙を書き終えようとしています。しかし今のような郵便制度がない時代です。誰かにその手紙の配達を託さなくてはなりません。そこで選ばれたのがティキコでした。彼がどのような人物であったかは使徒言行録や他の手紙を通して知ることができます。彼は小アジアの出身で、パウロに導かれて同労者となった人でした(使徒20:4)。そして、神に仕える者としてエフェソに(2テモテ4:12)あるいはクレテに(テトス3:12)遣わされ、当時決して安全ではなかった旅を主のために繰り返した人でした。この手紙が書かれた時点では、恐らく獄中にいるパウロをなんらかの形で助けていたのでしょう。そのようなティキコをパウロはコロサイに遣わそうとしていたのです。パウロは彼を次のように紹介しています。「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。」
彼は「忠実に仕える者」でした。この「忠実な」という形容詞をパウロはしばしば手紙において用いています。その後のオネシモという人についても、パウロは「忠実な愛する兄弟」と呼んでいます。また、この手紙の冒頭に出てきたエパフラスという人についても、彼を「キリストに忠実に仕える者」と呼んでいます。パウロにとっては、神に仕える人が「有能であるか有能でないか」より、「忠実であるかどうか」がまず重要だったのです。
それは遡ってイエス様御自身から来ていることです。思い起こされるのは、マタイによる福音書25章14節以下に書かれている「タラントン」のたとえです。そこで注目すべきことは、5タラントンもうけた者も、2タラントンもうけた者も、まったく同じ言葉を主人から頂いているということです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21,23)。つまり主人が評価したのは為し遂げたことの大きさではなかったということです。そうではなく、主人の心を我が心として仕えたかどうかなのです。
一タラントンの者は主人から叱責されました。それは一タラントンを土に埋めておいたからです。なぜ埋めておいたのでしょうか。その人は言います。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり…」と彼は言います。「蒔きもしないで刈り取ろうとする」という言葉は明らかに自分が一タラントンしか与えられていない不満から来ています。その結果主人の心を思いつつ仕えることが出来なかった。違っていたのはその点でした。
こうして見ますと、聖書が「忠実な人」と言うとき、それは単にある職務や仕事に対して忠実である人を意味しているのではないということが分かります。そうではなく、「主人である神を愛し、神の心を我が心として仕えていること」を意味しているのです。
そこで重要なことは、パウロがティキコについてただ「忠実に仕える者」と言うだけでなく、「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者」と呼んでいることです。ティキコが生まれながらに真面目な人物であるかどうかは知りません。しかし、少なくとも神を愛し、神の心を己が心として仕えるようになったのは、彼が主に結ばれた結果なのです。主に結ばれて、彼は「忠実な者」とされたのです。
そのことをさらに良く表わしているのは、パウロがティキコに同行させようとしているオネシモという人物の場合です。パウロはこのオネシモをティキコと共にコロサイに送ろうとしていました。それは、「あなたがたの一人」とあるように、このオネシモがもともとコロサイに住んでいた人だからです。彼はフィレモンという人の奴隷でした。このフィレモンに宛てて書かれたのが、聖書の中でもっとも短い書簡である「フィレモンへの手紙」です。
その手紙は改めて共に読むことになりますが、簡単に内容を紹介しますと、どうもオネシモはフィレモンの家から物を盗んで逃亡したらしいのです。そして、コロサイから出て当時の国際都市であったローマに向かいました。そして、経緯は不明ですが、逃亡奴隷であるオネシモが獄中にいるパウロに出会ったのです。彼はキリストを信じ、キリストによって罪を赦され、神と共に生きる者になりました。
パウロはそんなオネシモを「監禁中にもうけたわたしの子」と呼んでいます(フィレモン10)。それだけでなく「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」(同11)と書き送るのです。オネシモという名前はもともと「役に立つ者」という意味の名前でした。彼は、キリストに結ばれて、名前通りの者となったのです。パウロはそんな彼を「忠実な愛する兄弟」と呼ぶのです。明らかに忠実さは彼の生まれながらの性質ではありませんでした。主に結ばれて忠実な者とされたのです。
続いて、パウロは「わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコ」「バルナ場のいとこマルコ」「ユストと呼ばれるイエス」という3人のユダヤ人に言及しています。彼らについては、「割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です」と書かれています。
その中で特にマルコの名前がここに記されていることは注目に値します。というのも、本来、ここにあるはずのない名前だからです。
使徒言行録13章13節にこう書かれています。「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネ(マルコのこと)は一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。」エルサレムの住人であったマルコがパウロの伝道旅行同行したのは、神に仕えたいという純粋な思いからでしょう。しかし、伝道旅行はマルコの予想をはるかに越えて困難な旅でした。そこでついにマルコは一行から離れて家に帰ってしまったのです。
パウロは怒りました。マルコを許しませんでした。ですから、次の伝道旅行に行くときバルナバとの間に論争が起こりました(15章36節以下)。バルナバはマルコを連れて行きたいと思いましたが、パウロは強行に反対しました。結局、パウロとバルナバは別行動を取ることになってしまったのです。
神様に仕えたい、忠実な働き人になりたいという思いはあります。しかしマルコのように、様々な弱さゆえに挫折を経験することがあり得ます。しかし、それは奉仕者としての彼の終わりではありませんでした。彼はその後十年余りの年月を経て、このパウロの手紙に名前を連ねているのです。獄中のパウロと共に仕え、コロサイの教会によろしくと言っているのです。そして、パウロにとって「慰めとなった人々」の一人として名を連ねているのです。私たちはそこにキリスト御自身の憐れみを見ることができるのでしょう。まさに、彼もまた「主に結ばれて」忠実に仕える者としていただいた一人だったのでした。
2022年3月9日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 4:7~18
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