2022年3月16日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 4:12~18

コロサイの信徒への手紙 4:12-18

 7節以下に記されています、この手紙の結びの言葉を、2回に分けてお読みしています。

 先週お読みしたところには5名の名前が書かれていました。まず、ティキコとオネシモ。パウロはこの手紙をティキコに託し、オネシモを彼に同行させます。彼らはコロサイの人々に手紙を手渡すだけでなく、パウロたちの様子を伝えるために遣わされるのです。

 続いて、アリスタルコ、マルコ、ユストという三人のユダヤ人キリスト者からの挨拶が記されています。「割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です」(11節)。彼らはそのような人々でした。

 今日お読みしたところには、さらにエパフラス、ルカ、デマスという三人の異邦人キリスト者からの挨拶がしるされています。

 エパフラスについては、「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています」(12節)と語られています。彼は今、ローマにおいてパウロと共にいますが、もともとはコロサイにいた人でした。隣接するラオディキアとヒエラポリスという町の名前も出てきますから、恐らくはその地域の教会を牧会していた指導者の一人だったのでしょう。

 その彼が、今は遠く離れたローマにいます。直接、彼らのために働くことはできません。しかし、だからこそ彼はコロサイの人々のために祈るのです。「彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」。そして、「あなたがたのために熱心に祈っている」と訳されているのは、「祈りにおいてあなたがたのために苦闘している」という言葉です。彼は、遠く離れていながら、彼らのために苦闘しているのです。

 祈りは単に自分の心の安らぎのために与えられているのではありません。エフェソの信徒への手紙を読んだ時、パウロが神の武具について語ったところで「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ4:12)と語っていたことを思い起こさなくてはなりません。祈りは、特に執り成しの祈りは、しばしば闘いです。労苦することであり苦闘することです。

 しかしそれは、たとえどんなに離れていたとしても、直接かかわることができないとしても、私たちは誰かのために労苦し、苦闘することができるということでもあります。エパフラスはローマにいます。しかし、パウロは言うのです。「わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています」(13節)と。

 その労苦は、彼らが「完全な者」となるためでした。「完全な者」とは成熟した大人を意味する言葉です。信仰の成長はどこに向かうのか。神の御心をすべて確信している者となるところに向かうのです。訳されていませんが、そこには「立つ」という言葉使われています。御心を「確信して立つ」のです。

 自分の願いや求めにしか思いが向かないのは未熟な幼児です。成熟した信仰者は、神の願い求めが何であるかを知ろうと努めます。そして、御心を確信して立つのです。エパフラスは、コロサイの信徒たちがどんな困難や迫害があったとしても、常に神の御心を確信してしっかり立っている信仰者となることを願い、祈ります。成長させてくださるのは神だからです。

 そのように、私たちは、遠く離れていても、直接かかわることができなくても、誰かのために労苦することができる。そして、人間にはなし得ないこと、神にしかなし得ないことを実現することができるのです。

 続いて書かれているのは、ルカとデマスです。ルカは「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を著した人物です。使徒言行録を読みますと、16章10節から伝道旅行の記録に「わたしたち」という表現が出てきます。そこからルカが加わったことがわかります。それは、パウロが幻の中で、一人のマケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と懇願するのを見た、あの時のことでした。そこから始まったヨーロッパでの伝道と、ここでルカが加わったことは、無関係ではないかもしれません。いずれにしても、大切な時に主が備えてくださった人だったのでしょう。そこからルカは、度々パウロの旅に同行し、今、彼は捕らわれのパウロと共にローマにいるのです。

 そして、そこにはデマスの名前も共に記されています。彼については詳しいことは分かりません。しかし、フィレモンの手紙においては、マルコ、アリスタルコ、ルカと共に「わたしの協力者たち(同労者たち)」と呼ばれています。彼が共にいることは、獄中のパウロにとって、大きな意味を持っていたものと思われます。

 そのようにルカとデマスが共に「よろしく」と言っているわけですが、後にこの二人は全く異なる道を歩むことになりました。テモテへの手紙二3:9において、パウロはテモテに「ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。」と言っています。それはなぜか。「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください」。

 「愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています」。この言葉が、テモテへの手紙と共に、後々までも読まれ続けている事実そのものが、信仰においては過去ではなく常に現在が重要であること、今、「目覚めていること」が重要であることを語っているように思います。

 そして、さらにパウロはラオディキアの教会への挨拶を記します。この手紙は回状として、ラオディキアの人々にも読まれることになるからです。そこには、わざわざ「ニンファと彼女の家にある教会の人々」と記されています。現在のような教会堂がない時代の話です。比較的大きな家の信徒が集まる場所を提供し、そこに集まって礼拝をささげていたのが当時の教会でした。

 来週は「フィレモンへの手紙」を読む予定ですが、コロサイの教会のために場所を提供していたのが、オネシモの主人であったフィレモンでした。そのような隣接都市の「家の教会」が、異教世界のただ中で、神々を拝まぬ無神論者と中傷されながら、ここに見るように互いに連絡し合い、支え合って生きている姿がうかがえます。そして、彼らを支えていたのは、先に見たように、遠く離れたローマの獄中からの祈りだったのです。それが、まさに「キリストの体」とこの手紙において呼ばれている教会の霊的なリアリティだったのです。

 現代の教会に比べるならば、彼らが持っていないものを私たちはたくさん与えられていると思います。例えば、この教会堂もその一つでしょう。しかし、彼らが持っていて私たちの持っていないものもたくさんあるように思います。そこに私たちは目を向けるべきなのでしょう。

 そして、そこにアルキポに対する励ましの言葉が加えられています。ラオディキアへの挨拶の後に記されていることから、彼は、かつてエパフラスがしていたように、コロサイやラオディキアなど、その地域の諸教会の指導に当たっていた人なのでしょう。「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」。彼に伝えられるべき言葉はそれだけです。具体的なことは何一つ語られていません。しかし、そう言えばアルキポには分かる。それを伝えるコロサイの人々にも分かっているのです、その小さな励ましの言葉で、すべてが伝わるということを。なぜなら、彼らは単にお互いの言葉や行為によってつながっている以前に、彼らは共に「主に結ばれている者」だからです。彼らは教会だからです。
(祈り)

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