2021年8月22日日曜日

「目に見えないものを待ち望む」

ローマの信徒への手紙 8:18-25

 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(22節)と書かれていました。パウロが言うように、この世界は苦しみの満ちている世界です。ただ人間だけが苦しんでいるのではありません。この世界に存在するすべての被造物が苦しんで、うめいている。――パウロはそのような世界としてこの世界を見ています。苦しんでいるのは人間だけではないというのは、極めて現実的な見方であると言ってもよいでしょう。

 しかし、ここで注目に値するのは、その苦しみを「産みの苦しみ」と呼んでいることです。「共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」と。一般的に「世の終わり」という言葉で多くの人がイメージするのは世界の滅亡なのでしょう。しかし、聖書はそうは言わないのです。苦しみに満ちたこの世界は滅びに向かっているのではなく、破局に向かっているのでもなく、救いに向かっているのです。

 なぜなら、この世界を創造された神は、イエス・キリストを通して、御自分が愛の神であり、救いの神であることを現してくださったからです。だから、すべての被造物が共にうめいているのだけれど、それはあくまでも「産みの苦しみ」なのです。ただ滅びへと向かうだけの無益な苦しみではなく、最終的な完全な救いへと向かうプロセスなのです。

体の贖われることを待ち望む
 そのような世界に私たちは生きています。確かに、それは苦しみのある世界です。そこで信仰をもって生きることは、必ずしも苦しみを免れることを意味しないことを私たちはよく知っています。信仰を持っていても災いには遭います。病気にもなります。信仰を持っていればコロナに感染しないかと言えば、そんなことはありません。迫害の時代には、信仰のゆえに苦しみを負うこともあったのでしょう。苦しみのあるこの世界に体をもって生きている限り、苦しみのない人生はあり得ません。

 しかし、信仰者にとっても、他の被造物と共に味わっている苦しみは「産みの苦しみ」なのです。産みの苦しみの先には大きな救いの喜びがあるのです。「産みの苦しみ」であるならば、それはやがてはもう思い出されることのない過去の苦しみになるのです。

 それゆえに、パウロはこう続けます。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(23節)。確かにこの世に生きる限り、心の中に「うめき」はあります。しかし、それはやがて与えられる大いなる救いを待望しての「うめき」なのです。

 やがて与えられる大いなる救いは、「神の子とされること、つまり、体の贖われること」と表現されています。「体が贖われる」というのは、私たちが普段耳にしない表現です。それは何を意味するのでしょう。「贖う」という言葉自体は、しかるべき代価を支払って奴隷や捕虜を自由にすることを意味します。解放することです。

 ここで「体の贖われること」について語られているということは、とりもなおさず、私たちの体が捕らわれの状態にあることを意味しています。わたしの体でありながら、わたしの自由にはならない。他の力によって支配されている。確かに体とはそういうものでしょう。

 パウロがまず念頭に置いていたのは、「罪」に支配された体ということだったようです。今日は8章をお読みしましたが、その直前の7章で次のように語っています。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:19‐20節)。つまり、わたしの体でありならが、「わたし」のコントロールのもとにはない。そうではなく自分の中に住んでいる「罪」の支配のもとにあるということです。私たちは我が身一つ治めることができない者だということです。

 そのように「罪」に支配された体はまた、「死」に支配された体でもあります。信仰者であろうがなかろうが、この世に体をもって生きている限り、死を免れることはありません。私たちは一人残らず、生まれた時から死につつある存在です。私たちの願いとは関係なく、病気もすれば怪我もする、心も肉体も傷つきます。それはまた「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」という現実と無関係ではありません。罪の支配と共に死の支配があります。死の支配は人生の最後にやってくるのではありません。体をもって生きているその人の一生が死の支配のもとにあるのであって、それは様々な形で既に現れているのです。

 だからこそ、パウロはそのような「体」について、「(わたしたちは)体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と言うのです。この体は永遠に捕らわれたままではないということです。もはや罪に苦しむことも死を恐れることもない、そのような時が来る。やがて罪と死の縄目から完全に解き放たれる時が来るのです。確かにこの体をもってこの世に生きる限り、心の中に「うめき」はあります。しかし、それはやがて与えられる大いなる救いを待望しての「うめき」なのです。

“霊”の初穂をいただいているわたしたち
 そして、私たちがうめきながら待ち望んでいる神様の救い、「体が贖われること」と言い表されている最終的な救いは、また、「神の子とされること」と表現されています。「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と。「待ち望んでいる」ということは、まだ実現していない、ということです。つまり、私たちはまだ神の子とされてはいないということです。

 しかし、もう一方において、私たちは既に神の子とされていると言うこともできます。現に「天にまします我らの父よ」と祈っているではありませんか。神に背いたアダムとエバが神の顏を避けて園の木の間に隠れたように、本来ならば神の顏を避けて隠れざるを得ない私たちが、今こうして神に顏を上げて、安心して「父よ」と祈っているのです。イエス様のたとえ話に出て来た放蕩息子のように、本来ならば「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言わざるを得ない私たちが、父に抱かれている安心の中で「父よ」と祈っているのです。

 これは私たち自身から出たことではありません。純粋に神の霊によって恵みとして与えられた生活です。ですから、今日の聖書箇所には入っていませんが、同じ章において次のように書かれているのです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。これは既に実現していることです。

 このように、私たちは「既に」神の子とされていますが、「未だに」神の子とされることを待ち望んでいます。それが私たちの信仰生活です。「既に」と「未だ」の間にある信仰生活です。それが今日の聖書箇所では「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」という言葉をもって表現されています。私たちは「初穂」をいただいているのです。

 「初穂」というのは、その年の最初の収穫です。何度かに分けて行われる収穫作業の最初の時には、まだ畑一面が色づいているわけではありません。しかし、やがて全体が黄金色に色づく時を思いつつ、最初に刈り取られた初穂が神殿へと運ばれ、神に捧げられます。すなわち、この僅かばかりの初穂は、やがて大きな収穫の時が訪れる前触れでありしるしなのです。そのような「初穂」を私たちは既に与えられているのだと語られているのです。

 私たちは神の子とする霊、聖霊を初穂として与えられています。それは「アッバ、父よ」と呼ぶ生活を初穂として与えられていることでもあります。私たちの信仰生活は初穂です。それがどんなに小さなものであっても、それは初穂です。それはやがて受ける完全な救いの一部を既に味わいはじめているということです。いや、初穂を受けているならば、既に救われているとも言えるのです。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(24節)と書かれているとおりです。

 最終的に「神の子とされる」ということ、体が贖われるということがいかなることかを、私たちはまだ知りません。罪と死から解放された神の子として神と共にあるということがいかなることかを、私たちはまだ知りません。そこにどれほど大きな喜びがあるのかを私たちはまだ知りません。私たちはまだ見ていませんから。それは私たちの経験の外にあることなのです。そこにおいては産みの苦しみのすべてが、この世の苦しみのすべてが忘れ去られるほどに大きな喜びがあるのでしょう。しかし、それを私たちは見ていないし、恐らく思い描くこともできないのです。その意味では、私たちの信仰生活とは、まだ見ていないもの、まだ目に見えないものを待ち望む生活であると言えるでしょう。

 しかし、繰り返しますが、私たちは既に「初穂」を与えられているのです。既に“霊”の初穂を与えられている私たちであるからこそ、このように語られているのです。「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(25節)。

 確かに苦しみのあるこの世界に生きるには忍耐が必要です。忍耐して待ち望むのです。そのために初穂が与えられているのです。初穂として与えられている信仰生活を大切にしてこそ、既に希望によって救われた者として、喜びと感謝をもって来るべき全き救いを、忍耐強く待ち望み、忍耐をもって今与えられているこの人生を本当の意味で大切にして生きることができるのです。

(祈り)
 

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