2021年8月15日日曜日

「主に対してするように、心から行いなさい」


コロサイの信徒への手紙 3:18‐4:1

 ここには私たちにとって最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられています。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ社会生活における労使関係として適用できるかも知れません。いずれにせよ身近な人間関係において私たちがいかに生きるべきかを教えている聖書箇所です。

 しかし、私たちはここだけを取り出して「より良い人間関係を築くためのノウハウ」のように読んではなりません。実はその前に大事なことが書かれているのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。すなわち、前提となっているのは、御言葉を聞き、心に宿し、神を礼拝し、感謝して生きる信仰生活です。ここに書かれているのは、信仰生活の具体的な展開なのです。そのことを踏まえた上で、三つの関係、すなわち夫婦の関係、親子の関係、労使の関係における勧めをご一緒に見ていきたいと思います。

夫婦の関係
 まず、夫婦の関係においてパウロは勧めます。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18、19節)。当時の女性の地位は大変低いものでした。それはギリシア人においてもユダヤ人においても変わりませんでした。しかし、パウロはここで、女性は劣っているから、夫の方が偉いから、妻は仕えるべきなのだと言っているのではありません。「主を信じる者にふさわしく」と言っているのです。仕えるのは「主を信じる者にふさわしい」ことだからなのです。

 主イエスを信じ、主に結ばれる時に、「仕える」ことの意味が変わります。なぜなら、主イエス御自身こそ、神の御子であられながら徹底して低くなられ、僕の姿となられ、私たちの救いのために仕えてくださったからです。主は弟子たちに言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。

 象徴的な出来事がありました。主が十字架にかけられる前日のことです。イエス様は弟子たちとの最後の食事をするために共におられました。すると突然主は食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められたのです。当時の奴隷がしていたことを、あえてなさった。それはやがて主が十字架につけられて死ぬことが何を意味しているかを表す出来事でした。主は僕となって私たちの罪を洗ってくださった。罪の贖いのために死んでくださったとはそういうことです。

 キリストを信じて生きるということは、言い換えるならば、主に仕えていただき罪を洗っていただいた者として生きることです。主に仕えていただいた者が今度は人に仕える者となる。それは主を信じる者にふさわしいことです。そのことが「妻たち」について語られているのです。

 もちろん「主を信じる者にふさわしいこと」が求められているのは「妻たち」だけではありません。それゆえに、夫たちには別の面から「主を信じる者にふさわしいこと」が勧められています。それは「妻を愛しなさい」ということです。

 それでは、「妻を愛する」とはどういうことでしょうか。実は、同じ勧めの言葉がエフェソの信徒への手紙にも書かれているのです。そこにはもう少し詳しく、次のように書かれています。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5:5)。やはりここでもキリストがしてくださったことにまず目が向けられています。キリストが教会を愛された。それは要するに十字架にかかって命を捨てられたということです。それと同じように愛しなさいということが、特に夫に対して言われているのです。妻を愛して、妻のために命を捨てなさいということです。

 さて、ここで私たちは、「相手が愛してくれたら仕えなさい」とか「相手が仕えたら愛しなさい」とは言われていないことに注意しなくてはなりません。相手がどうであるかではないのです。まずこちらから仕え、また愛することが求められているのです。実際それがキリストのしてくださったことであり、キリストを遣わされた父なる神がしてくださったことなのです。聖書には次のようにも書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。そのように、まず神が愛して、神が行動してくださいました。そのことを思います時に、私たちにとって具体的な身近な関係において「主を信じる者にふさわしいこと」もまた見えてくるのです。

親子の関係
 次に、親子の関係についてこのように言われています。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(20-21節)。ここでも子供が従うべき理由は、子供が親より劣っているからではありません。親の方が人生経験に富んでいるからでもありません。「食べさせてもらっているうちは親に従え」などという親もいますが、もちろんそのような意味で「両親に従いなさい」と言われているのでもありません。この背景には、家庭というものは神に由来するのだという聖書的な理解があるのです。親子について言えば、神が親に子供を託された。ですから、子供が従うことは、「主に喜ばれることです」と書かれているのです。あくまでも主との関わりにおいての話なのです。

 ですから、この聖書の箇所を読んで、「そうだ、いいことが書いてある。子供に読ませよう」などと単純に考えてはならないのです。そもそも「どんなことについても両親に従いなさい」という勧めは親にとって単純に喜べる言葉ではないはずです。「どんなことについても両親に従いなさい」――大丈夫でしょうか。本当に「どんなことについても」従って大丈夫でしょうか。そのことを親はよく考えなくてはならないのです。子供が親の語るように語り、親の行なうように行ない、親が生きているように生き、親が考えていることを同じように考えるようになって大丈夫なのでしょうか。要するに、ここではただ「子供たち」のあり方が語られているのではなく、親の生き方そのものが問われているのです。子供が従って良いような人生を送っているかが問われているのです。

 もちろん親たる者も人間です。自分自身の内に確かさがあるわけではありません。ならば、最終的に、親として子供に出来ることは、神を指し示すことだけなのです。言い換えるならば、親に出来ることは、子供に従順を求める前に、自らが神への感謝と従順に生きるということなのです。

 親が喜びと感謝をもって神に従順であって初めて、子供が親に従順であっても大丈夫なのです。そのことなしに、力をもって子供を服従させようとするとき、ここに書いてあるように「子供をいらだたせる」ことになるでしょうし、子供が「いじける」ことも起こってくるのです。「いじける」という言葉は「気落ちする」「がっかりする」とも訳される言葉です。生きる力と希望を失った状態です。子供たちが希望にあふれた人として神への感謝と従順に生きられるようになるためにも、親と神との関係は重要です。

労使の関係
 最後に、労使の関係における勧めに耳を傾けましょう。これはまた、私たちが社会生活におけるすべての人間関係においても適用できる言葉であろうかと思います。

 現代の日本には奴隷制度はありません。しかし、奴隷のメンタリティで生きている人はいくらでもいます。すなわち、義務としてしか何事もできない人。人にへつらおうとしてうわべだけでしか仕えることのできない人です。それは奴隷ではなくても、実質的には奴隷と少しも変わりません。

 パウロは当時の社会において奴隷解放運動を展開したわけではありません。しかし、パウロが伝えた福音は、もっと大きなことを成し遂げたとも言えます。人間を奴隷のメンタリティから解放したからです。義務だから仕方なくいやいや行っていた人を、喜びに溢れて感謝をもって行う人に、人にへつらおうとうわべだけで仕える者を、喜びをもって心から誠実に仕える者にしたのです。そして、これこそ私たちもまた得なくてはならない大きな解放なのです。

 パウロは「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心から行ないなさい」(23節)と勧めます。このようにして私たちは毎日同じ事の繰り返しとしか思えない平凡な生活の中で主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。私たちは、やり甲斐や生き甲斐とは全く無縁と思えるような作業においても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。気難しい人々、愛することが困難な人々との関わりにおいても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。

 また、私たちが仮に人の上に立つような場合でも、ここでパウロが「主人たち」と呼んでいるような立場に身を置くことがあったとしても、自分の主人が天にいることを忘れてはならないのです。そのようにして主人たる者も主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。

 以上、身近な人間関係を取り上げている聖書の箇所を読んできました。「主を信じる者にふさわしく」「主に喜ばれること」「主に対してするように」という言葉が出てきましたように、信仰者にとってすべての人間関係の土台は「主との関係」です。主にある者としてふさわしく生きたい。主に喜ばれる者になりたい。主にお仕えする人生を送りたい。そのような願いが養われてこそ、人との関わりも変わってくるのです。

 最初にお読みした言葉をもう一度お読みします。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。この神への讃美と感謝が、私たちの関わるすべての人間関係に溢れ流れていきますように。

(祈り)
 

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