コリントの信徒への手紙二 5:16-6:2
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(17節)と書かれていました。人は新しくなれる。人は新しく生きることができる。聖書はそのように教えています。聖書はこのことを「新しく創造される」と表現しています。人間を造られたのは神です。その神の新しい創造によって、人は新しくなるのです。では、この新しい創造における《新しさ》とは何でしょう。人が新しくなるとは、どのようなことを意味するのでしょうか。
世を御自分と和解させ
そこで18節以下に目を向けますと、次のように書かれています。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18‐19節)。
「新しい創造」の話しが続くと思って読んでいきますと、期待に反してパウロはここで唐突にも「和解」の話を始めます。そこでひとまず「新しい創造」は横に置いておくことにしまして、彼の論述に従って、まず「和解」ということに目を向けてみましょう。
「和解」とは関係の回復です。この聖書箇所において取り上げられているのは「神との関係」です。「神との関係」がどうなっているか、ということです。ところで、一般的に「神」について語られる時、「神との関係」が話題になることはまずありません。一般的に話題になるのは、「神の存在を信じているかどうか」です。ある人は「わたしは神が存在すると信じています」と言い、ある人は「わたしは神がいるなんて信じない」と言います。クリスチャンとは「神がいると信じている人のこと」だと思っている人は少なくありません。
しかし、聖書は私たちに「あなたは神の存在を信じていますか」とは問いません。そうではなくて、「あなたと神との関係はどうなっていますか」と問うのです。そして、「あなたと神との関係はどうなっていますか」という問いは、私たちの最も深い内面を問う質問となります。なぜなら、神との関係において問題となるのは表面的なことではないからです。人との関係ならいくらでもごまかしが利きます。表面的に良いおつきあいをすることはいくらでもできます。しかし、神との間ではそうはいきません。聖書は言います。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブライ4:13)。
神との関わりにおいては、私たちの深い部分、そして隠れた部分が問題となります。それゆえに、どうしても目を向けざるを得ないのが私たちの罪の問題です。人の目には隠れていて問題とならないことも、神との間では問題となるのです。「すべてのものが神の目には裸」ですから。そして、罪を正しく裁くことのできる神によって私たちが罪を問われるとするなら、私たちは神に顔向けができなくなります。アダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれています。私たちの罪を問われるならば、私たちもまたそうせざるを得ないのです。
しかし、先ほどお読みしたところには次のように書かれていました。もう一度お読みします。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18‐19節)。
「人々の罪の責任を問うことなく」――確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が、「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と言われるのです。「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。私たちはしばしばお互いの間で罪を数え立てるということをしているのでしょう。「あの人はこういうことをした。ああいうことをした。また、同じことをした」と、心の中の記録にしっかりと記帳するのだと思います。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神はもはや罪を数え立てることはしないと言われるのです。
いや、罪を数え立てないだけではありません。さらに驚くべきことが語られています。神の方から人間に対して和解を求められた、ということです。これがどれほど驚くべきことかは、少し考えただけでもわかります。罪があるのは私たちです。神との関係が壊れているとするならば、問題は一方的に人間の側にあるのです。そして、常識的に考えるならば、罪を犯した方が誠意を見せて和解を願い求めるのが筋でしょう。
しかし、私たちが願う以前に、神の方から和解を望んでくださったというのです。そうです、パウロは私たち人間に対して伸ばされた神の御手を知ったのです。この世に伸ばされた和解の御手、救いの御手、それはこの地上に来られた神の御子イエス・キリストです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」とパウロが言っているのは、そういうことです。
キリストの懇願
その意味するところは具体的に21節に記されています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(21節)。これは毎週礼拝において私たちが耳にしている言葉です。「罪と何のかかわりもない方」とはキリストのことです。その罪のない方を、神は罪人のひとりとして裁かれました。裁かれる必要のない方が裁かれました。死ぬ必要のない方が死なれました。神の御子が十字架にかけられたという出来事は、神御自身がそのような形において人間の罪を引き受けられたということを意味するのです。
本来私たちが負うはずの罪の重荷はキリストが負ってくださいました。そして、神は御子の身代わりをもって、もはや私たちの罪の責任を問うまいとされたのです。キリストの十字架のゆえに、もはや罪過を数え立てることをされないのです。罪を数え立てる代わりに、和解の言葉を与えてくださったのです。それをパウロに託し、教会に託してくださったのです。ですからパウロはこう言うのです。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(20節)。
「キリストに代わってお願いします」とパウロは言いました。それは「懇願する」と訳してもよいような言葉です。キリストに代わって懇願しているのですから、もともと懇願しておられるのはキリストです。「神と和解させていただきなさい!」これは私たちのために十字架にかかられたキリストの懇願の言葉です。なぜ懇願しておられるのでしょうか。そこには人間の側のアクションが必要だからです。和解は一方的には成り立たないからです。
和解のために必要なすべてはキリストが十字架において成し遂げられました。そして、和解の言葉が伝えられました。神は和解の手を伸ばしてくださいました。しかし、それだけでは和解は成り立ちません。神が和解の御手を伸ばしてくださったとしても、その手を払いのけたら和解は成立しません。私たちの側としては、自らの罪を神の前に認めて、「和解の言葉」を感謝をもって受け入れ、私たち自らが神に立ち帰る必要があるのです。そのようにして、人は神との新しい関係に生き始めるのです。主はそのことを願っておられるのです。
さて、冒頭の問いに戻りましょう。新しい創造における《新しさ》とは何でしょう。人が新しくなるとは、どのようなことを意味するのでしょうか。それは既に見てきた聖書の言葉において明らかであろうと思います。新しい創造の《新しさ》とは、神との和解によって与えられる、《関係の新しさ》なのです。人は、神と和解させていただいて、神との新しい関係の中に、新しく創造されるのです。人は新しい自分を求め、新しい自分になろうとして、様々なことを試みるかもしれません。しかし、本当に重要なことは、神との関係において、新しくなることなのです。その新しさこそが、永遠の意味を持つのです。
今こそ、救いの日
そして、最後にもう一つ大事なことに目を向けたいと思います。私たちが今日読んでいるのは教会に宛てて書かれた手紙であるということです。つまり「神と和解させていただきなさい」という言葉そのものは、この世界に対する宣教の言葉なのですが、今日の箇所全体は、直接的には、既に神と和解させていただいて神と共に生き始めているキリスト者に対して語り掛けられている言葉なのです。
これは何を意味しますか。和解させていただいて、それで終わりではない、ということでしょう。和解させていただいたなら、和解させていただいた者として、その新しい関係に生き続けるということが大事になってくるということです。ですから、パウロは更に「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(6:1)と勧めるのです。「神の恵みをいたずらに受けてはならない」と口語訳では訳されていました。これは大切なことです。洗礼を受けてそれで完了なのではありません。受けた恵みが無駄になってしまうようなことは、あってはならないのです。神と和解させていただいたのなら、神との関係において新しく創造されたのなら、その新しい命を日々神と共に生きていくということが大事になってくるのです。
それゆえに、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」という言葉は、次のように続きます。「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(6:2)。
「あの日、わたしはキリストを信じました。」「あの日、わたしは回心しました。」「あの日、わたしは洗礼を受けました。」――それもまた人生における大事な「日」であり「時」なのでしょう。しかし、最も大事なのは「あの日」ではなくて「今」なのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とパウロは言います。今、神との関係はどうなっているでしょうか。
(祈り)
2021年7月25日日曜日
「神の恵みによって新しく生きる」
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