2021年2月7日日曜日

「主よ、憐れんでください」

マタイによる福音書 15:21-31

わたしを憐れんでください
 本日の福音書朗読は「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」(21節)という言葉から始まります。「そこ」とは14章34節によれば「ゲネサレトという土地」ということになります。しかし、この直前には、ファリサイ派の人々や律法学者たちとの論争が記されていますから、意味合いとしては、イエス様の言葉を拒否した彼らのもとを離れたということでしょう。

 15章は「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った」(15:1)という言葉で始まります。エルサレムからガリラヤまで百二十キロもの道のりを旅してやって来たのは、イエス様のことを伝え聞いたからに違いありません。神の国を宣べ伝え、罪の赦しを宣言し、病める人々を癒し、飼う者のない羊ような群衆を憐れみ、神の恵みの豊かさを現されたイエス様。その言葉と行いが、エルサレムにまで伝えられたのです。しかし、彼らが遠くからやってきて開口一番に言ったことは何だったでしょう。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」(2節)でした。

 律法を守ることに熱心であったファリサイ派の人々。彼らは決して不真面目な人々ではありません。しかし、そのような彼らは、イエス様のことを伝え聞いていながら、そして現にイエス様にお会いしていながら、その言葉と行いの中に神の恵みを見出すことはできませんでした。イエス様は、そのような彼らのもとを、一時的にですが離れたのです。そして異邦人の地、ティルスとシドンの地方へと退かれたのです。それがこの状況説明の意味するところです。そして、聖書はそのような場所において何が起こったのかを語りはじめるのです。

 「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」(22節)。

 この女の人も、イエス様のことを伝え聞いて御もとにやってきたのでしょう。その点では、あのファリサイ派の人々と同じです。しかし、彼女が開口一番口にしたのは「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(22節)という言葉でした。「あなたの弟子たちは食事の前に手を洗いません」ではありませんでした。これはある意味で当然のことです。彼女はユダヤ人の律法に関心ありませんし、置かれている状況も違いますから。

 確かにファリサイ派の人々とは状況が違います。しかし、彼女の言葉を注意深く聞いてください。この母親は「娘を憐れんでください。娘を癒してください」と言っているのではないのです。「主よ、《わたしを》憐れんでください」と言っているのです。憐れみを必要としているのは、娘ではないのです。母親である自分なのです。なぜでしょう。愛する娘が苦しんでいるのに、どうすることもできない無力な自分、どうしようもなく無力な自分であるからです。

 赤ん坊が夜中に泣き出したら、世の母親は言うかもしれません。「大丈夫よ、お母さんがいるから」。しかし、本当にお母さんがいれば大丈夫なのでしょうか。そんなことないでしょう。それは子供が成長していく過程において明らかになっていきます。自分の子供のことどころか、我が身一つどうすることもできない。それが人間です。実際には自分自身の行動すら、自分の心すらコントロールできないようなものなのでしょう。何が大丈夫なもんですか。

 しかし、その点においては、本当はあのファリサイ派の人々や律法学者たちも同じなのです。同じ人間ですから。しかし、気づいていないだけの話です。この母親は、娘の問題を通して、そのことに気づかされたのです。憐れみを必要としている自分であることを知ったのです。認めたのです。彼女とファリサイ派の人々との違いは、単に置かれている状況の違いではありません。憐れみを必要としている自分を知っているか否かの違いです。憐れみを必要としている自分を知っている人は――憐れみを求めます。「主よ、わたしを憐れんでください」と。

主よ、ごもっともです
 そのように、彼女は「わたしを憐れんでください」と叫びました。叫び続けていたようです。そして、続く物語は、「憐れんでください」と口にするということが、いったい何を意味するのかということを私たちにはっきりと示しています。23節からお読みします。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」(23‐27節)。

 「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫びながらついてくるその女の求めを、主は拒否されました。この母親は「カナンの女」と呼ばれています。異邦人であるということです。その彼女に、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と主は言われたのです。異邦人のあなたには遣わされていない、ということです。さらに、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とまで言われました。イエス様の言っている「子供たち」というのはユダヤ人のことです。イエス様が言わんとしている意味は明らかです。神の恵みは先ずユダヤ人に向けられているのであって、それを異邦人であるあなたに与えるのはよくないのだ、と言っているのです。

 このような言葉を快く思わない人は恐らく少なくはないでしょう。他の人のことでさえそうならば、自分に対する言葉であったらなおさらでしょう。教会でそのような言葉を聞いたり、そのような扱いを受けたらどうでしょう。腹を立てて「もう二度とあんな教会にはいかない!」と口にするかもしれません。

 しかし、驚いたことに、彼女の反応は違っていたのです。彼女は、「主よ、ごもっともです」と言ったのです。なぜでしょうか。ここで腹を立てたら元も子もないと、ぐっと怒りをこらえたのでしょうか。そうではないでしょう。彼女の心は、次の言葉によく現れています。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

 彼女は自分が「小犬」であることを認めているのです。わたしは「子供です」とは言わないのです。これは単に自分が異邦人であるということを言っているのではありません。そうではなく、《自分は当然のごとく何かをいただけるような者ではない》と言っているのです。パンを受けるべき「子供」ではないと言っているのです。

 この世の関わりにおいても、自分の場所があって当然と思う人は自分の場所がなければ腹を立てるのでしょう。自分が受けて当然と思っている人は、拒否されれば腹を立てるのでしょう。神に対してさえも私たちは同じように振る舞っているかもしれません。神なのだから祈りを聞いてくれて当然。自分の願いをかなえてくれて当然。願いどおりにならなければ「なぜですか」と言い、挙句の果てには、「そんな神は信じるに値しない」とさえ言い出すかもしれません。そして、そのような人からは本当の意味で「憐れんでください」という祈りは出てこないのでしょう。「憐れんでください」という言葉は、受けるに価しない自分であることを知っている人が口にする言葉だからです。

パン屑はいただきます
 しかし、ここで一番大事なことは、彼女のへりくだりではありません。そうではなくて、彼女が安心して「主よ、ごもっともです」と言えたということなのです。イエス様の御前では、安心して「小犬」であり得た、ということなのです。それはなぜでしょうか。彼女はこう言うことができたからです。「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と。

 細かいことになりますが、実は、原文には「しかし」という言葉はないのです。「なぜならば」と書かれているのです。彼女が言っているのは、こういうことなのです。「主よ、ごもっともです。わたしは小犬なんです。なぜなら、主人の食卓から落ちるパン屑をいただく――それが小犬というものだからです」。

 要するに、彼女は「主人の食卓から落ちるパン屑」をいただけることを知っているのです。確信しているのです。私は当然のごとくパンをいただける者ではない。でも、神は受けるに価しない者を憐れんでくださる。小犬を憐れんでくださる。パン屑をくださる。神様はそういう主人なのだ。――それが彼女の確信だったのです。

 なぜそう言い得たのでしょう。目の前にいるのがイエス様だったからなのです。受けるに価しない者に、なおも恵みを示してくださる神の憐れみを、言葉をもって、行いをもって現して来られたイエス様だったからなのです。イエス様を通して神の憐れみがいかに豊かに現されてきたか、そのことを彼女は伝え聞いていたのです。だからイエス様のもとに来て「主よ、憐れんでください」と言ったのでしょう。

 同じことを伝え聞いていても、ファリサイ派の人々にとってはそれが喜びになりませんでした。なぜですか。自分が当然のごとくパンをもらえる者だと思っているからです。そのような人にとって、小犬がパン屑を受けることは面白くないものです。しかし、自分が「小犬」だと思っている人にとっては、イエス様の言葉と存在は、大きな喜びです。安心して、「小犬」として、「主よ、わたしを憐れんでください」と言えるのです。

 そのようにして私たちは主人の食卓に近づくことが許されています。祈ることができるとはそういうことです。そのこと自体が既に神の憐れみなのでしょう。神の憐れみとして与えられている日々の祈りの時を大切にしましょう。

 そして、もう一つ。私たちが神の憐れみにあずかっているのは、私たちを通してこの世界が神の憐れみを知るためなのでしょう。私たちはキリストの体なのです。誰かが神の憐れみを知ることができるように、そして「主よ、憐れんでください」と祈ることができるように、私たちはこの世に遣わされているのです。


(祈り)

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