使徒言行録 12:1-17
真の支配者を知る無力な者の祈り
「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(12:1)。本日読まれた聖書の言葉です。「ヘロデ王」と呼ばれているのはヘロデ・アグリッパ一世のことです。洗礼者ヨハネの首を切ったヘロデ・アンティパスは彼の叔父に当たります。イエス様が生まれた時の物語にもヘロデという名前の王が登場しました(マタイ2章)。ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を皆殺しにしたというエピソードが聖書に記されています。ヘロデ大王の孫に当たるのが、ここに出てくるヘロデ・アグリッパ一世です。
ヘロデ大王にせよ、アンティパスにせよ、残虐なことをするのは、もう一方において恐れがあるからです。王位が常に脅かされているという恐れです。それだけユダヤ人のコミュニティが存在する領土を治めることが難しかったということでもあります。それは今日登場するアグリッパ一世についても同じでした。彼は最終的にユダヤ、サマリヤからガリラヤ地方に至るまで、祖父のヘロデ大王の時代にまさる広い領土を得ることになったのですが、そこには常に恐れがあったのです。
ですから、彼はエルサレムの城壁の建造に取り組んだり、ファリサイ派を重んじ、自らも律法を遵守するよう努めたりすることによって、なんとかユダヤ人の好意を得ようと腐心したのです。今日の聖書箇所に書かれている出来事にもそのような王の思惑が垣間見られます。「そして、それが(すなわち、ヤコブを剣で殺したことが)ユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした」(3節)。彼はペトロを捕らえ、過越祭の後で民衆の前に引き出して裁判にかけ、公衆の面前で処刑しようと考えていたようです。過越祭には多くのユダヤ人が都に集まっているのですから、ユダヤ人たちに自分の姿勢をアピールするには絶好の機会だと考えたのでしょう。
そのようなヘロデの思惑によってペトロは捕らえられ、牢に入れられました。「ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた」(4節)と書かれています。ヘロデの権力は強大です。その権力のもとにがっちりと捕らえられているペトロの姿がそこにあります。
使徒の一人が斬り殺され、もう一人の使徒が捕らえられて処刑されようとしている。この厳しい事態に直面している教会は実に無力です。ヘロデの力に対抗してペトロを救い出す力を教会は全く持ち合わせていません。しかし、教会にはなお為し得ることがありました。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と書かれています。彼らはペトロのために祈ったのです。
ヘロデは、ペトロが自分の手の内にあると思っていたことでしょう。「過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった」(4節)と書かれているとおりです。教会の運命も自分の手の内にあると思っていたに違いない。しかし、教会はこの世界が、ヘロデではない、もっと大きな支配のもとにあることを知っていました。ペトロは国家権力の支配のもとにあるのではない。そうではなく、さらに大きな支配のもとにあることを教会は知っていたのです。すなわち、すべては天地を造られた神の支配のもとにある。ゆえに彼らはその神に祈ったのです。
これまでにも多くの困難と迫害を経験してきました。教会は幾たびも大きな打撃を受けました。多くの人々が散らされていきました。そのような中でステファノは石で打ち殺され、、ヤコブは切り殺されて死にました。「なぜ、こんなことになるのか?」と叫ばざるを得ないことが幾たびもあったに違いない。しかし、それでもなお、彼らはこの世界が神の支配のもとにあることを見失いませんでした。だから、ここにおいても祈ったのです。熱心に祈ったのです。祈りは自らの無力を自覚する人間が、真の支配者で誰であるかを認識するところにあります。そのような人々が、心を合わせて他者のために祈るということはどういうことなのか。今日の箇所は私たちにはっきりと示しているのです。
祈りでつながっている人たち
6節以下において、場面は獄中に移ります。囚われのペトロはどうしていたのでしょう。「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた」と書かれています。彼は、教会の仲間がその夜どこにいるかを知っています。マルコの母マリアの家に集まってペトロのために祈っていることを知っているのです。壁の外では、教会が神の支配に信頼し祈っている。壁の中では、同じ神の支配に信頼し、ペトロが安らかに眠っています。牢獄の壁は世の権力を象徴しているとも言えます。しかし、その壁はもはや彼らを引き離すことはできない。そこでは、もはやヘロデの支配は何の意味を持ちません。この世のいかなるものも彼らを引き離すことはできません。ペトロと教会は同じ主のもとにあって一つに結び合わされているのです。これが他者のために祈るということであり、祈るときに起こることです。これが祈りでつながるということです。
「祈りでつながる」という言葉を、昨年の3月以来、私たちは繰り返し用いてきました。ここに集まることができる時もできない時も、「祈りでつながる主日礼拝」を共におささげしています。私たちは新型コロナウイルスの流行のゆえに毎週共に集まることができません。同じ場所に身を置くことが困難となっています。しかし、私たちが互いのために祈るならば、同じ真の支配者のもとにある私たちをいかなるこの世の事態も引き離すことはできないことを知っています。
それは共にこの世界のために執り成し祈る時も同じです。この被造物世界には、神の支配の及ばないところはありません。それゆえに、祈りによってつながり得ない場所はないし、関わり得ない人々はいないのです。それは世の権力によってがっちりと守られている牢獄の中でさえそうだということを、続く物語は雄弁に語っているのです。
人間の目から見るならば、ペトロはヘロデの手の内にあり、ヘロデの壁の中にいるわけです。教会はその壁の中にまで手が届かない。しかし、祈りを聞いてくださるまことの支配者が、その壁を越えて、その閉ざされた現実の中に生きて働かれるのです。「すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした」とはそういうことです。天使の登場によって表現されているのは、そこにまで神の支配は及んでいるということです。
もちろん、その渦中にある時には分からない。後になって初めて分かるということはいくらでもあります。ここでも興味深いのは、ペトロが後になって気が付いた、という書き方がされていることです。「ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ』」(11節)。
なるほど、突然天使が現れて外に連れ出したら、現実のこととは思えないでしょう。「幻を見ているのだと思った」のは無理もありません。しかし、そのような非現実的な出来事が起こったということでなくとも、同じように後で気が付いて「今、初めて本当のことが分かった」と言うことはあるのでしょう。
特に聖書はここで「町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いた」と語っています。「門がひとりでに開いた」――それはいかなる意味においても、ペトロが関わっていないことを意味します。人間の力によらず、すべては神がなさったことだということです。「ああ、すべては神がなさったことだった!」それが後になって分かるということは確かにあるのです。
そのように神の支配のもとにあって、いかなるこの世の力も、祈りでつながっているペトロと教会とを分断することできませんでした。そのことを強調するかのように、聖書はペトロがまっすぐに祈っている人々のところに向かったことを語るのです。
それは単にペトロの命が助かったからそう言えるのではありません。教会がこの出来事を伝えてきたのは、これがまさに象徴的な出来事だからです。事態は仮にペトロが殺されたとしても同じなのです。なぜなら、死のただ中にさえ神の支配は及んでいるからです。キリストの復活によって神はそのことを表してくださいました。最終的には死でさえも、祈りでつながる交わりを分断することはできないのです。
さて、ペトロはまっすぐにヨハネの母マリアの家に向かいました。「そこには大勢の人が集まって祈っていた」と書かれています。先にも言いましたように、そこには夜を徹してペトロのために祈る人たちがいた。ペトロもそれを知っていたのです。しかし、そこで聖書は非常にユーモラスな仕方で、その時の出来事を伝えます。ペトロが門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出ました。そして、彼女はペトロだと分かると、門も開けずに家に駆け込んでしまうのです。しかも、彼女が人々に告げると、彼らは「あなたは気が変になっているのだ」と言った、と書かれているのです。あるいは「それはペトロを守る天使だろう」と言う者もいたと言うのです。
思わず笑ってしまうような箇所でしょう。彼らは神に祈っていました。祈りを聞いてくださる神の御手は獄中にまで及んでいることを信じていたでしょう。ペトロを助けてください。救い出してくださいとも願ったことでしょう。しかし、ペトロが助かって帰ってくると確信していたわけではなさそうです。むしろ、それは信じられないことだったようです。いや、信じられない自分たちであるからこそ、ただ祈り続けて夜を過ごしたに違いない。大事なことは彼らが「ペトロのために」祈り続けたということなのです。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」。彼らは神のもとにあって、確かに苦難の中にいる獄中のペトロと共にいたのです。
(祈り)