2021年2月17日水曜日

灰の水曜日礼拝説教

 ヨエル書2:12-17

 預言者ヨエルが活動したのは紀元前5世紀であったと言われます。それは、一度滅亡したユダの王国が、再び帰還民によって建て直され、神殿も再建され、城壁も再び築かれた後の時代です。それゆえに国の滅亡を預言したアモスやイザヤなど、他の預言書とは随分趣きが違います。しかし、どのような預言者の書であれ、その背景となっているのは常に危機的状況です。ヨエル書の場合、それは「いなごの大群の襲来による大災害」でした。

 そのような災害は今日においても見られます。それは食糧にかかわることですから、まさに直接命にかかわる災害であります。イスラエルの民は、その歴史において、いなごの災害を幾度となく経験してきたに違いありません。しかし、ヨエルの時代の災害は、まさに前代未聞の規模において起こったのです。

 1章4節にはこう書かれています。「かみ食らういなごの残したものを移住するいなごが食らい、移住するいなごの残したものを、若いいなごが食らい、若いいなごの残したものを、食い荒らすいなごが食った」。そのようにヨエルは語ります。彼らはそのように徹底的な打撃をこうむったのでした。

 これは天災です。不可抗力です。他国との争いであるならば、外交的な努力も為し得るでしょう。しかし、いなごに対してはなすすべもありません。まったくの不可抗力によって、今までの労苦がまったく無駄になってしまいました。いや、苦労が水の泡になったというだけではすみません。自分や家族の存続さえ危ぶまれる状況に置かれているのです。昨日までの喜びがまったく絶たれ、絶望のどん底につきおとされてしまいました。

 驚いたことに、ヨエル書はそこで、「泣き悲しめ」と言うのです。「泣き悲しめ、いいなずけに死なれて、粗布をまとうおとめのように」(1:8)。既に彼らは泣き悲しんでいるのでしょう。しかし、そこであえて「泣き悲しめ」と神は言われるのでしょう。どうしてか。泣き悲しむことには二通りあるからです。いわば死に至る悲しみと、命に至る悲しみです。

 死に至る悲しみとは、「災いを」悲しむ悲しみです。自分の失ったものを数えながら嘆く悲しみです。このような悲しみには救いがありません。これは死に至る悲しみです。しかし、そうでない嘆きと悲しみがあります。「災いを」悲しむのではなくて、そこにおいて「自分自身の罪を」悲しむ悲しみです。自分の神に対する在り方が根本的に間違っていたことを、人生の方向が間違っていたことを悲しむ悲しみです。この悲しみには希望があります。この悲しみは命に向かう悲しみです。なぜなら、失ったものは返らないかも知れませんが、人生の方向は変り得るからであります。

 ヨエルはその災害による危機に直面する民の中にあって、自分たちと神との関係がいかに破れているかを思ったのでした。この民がいかに神から遠く離れていたかを思ったのです。確かにエルサレムの都は再建されたかも知れません。神殿は再建されたかも知れません。城壁も立派に築き上げられました。しかし、現実においては、神から遠く離れていた。その心は神から遠く離れていたのです。

 ヨエルは、神の前に立ち得ない自分たちの姿を考えていました。それまでは、神のために大きなことを成し遂げてきたかのように思っていたかも知れません。しかし、神の真実なる光のもとにあるならば、何と人の営みとは罪深いものでしょう。いなごの害は、神の最終的な裁きではありません。しかし、それは神の最終的な裁きを指し示し、神の最終的な裁きについて考えさせる、そのような出来事でありました。

 ですから、ヨエルは「主の日」について語るのです。1章15節。「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」と語るのです。「主の日」とは神が正しく世を裁かれるその日です。ヨエルは、神が正しく裁かれるならば、それは破滅でしかないことを悟るのです。とても神の前に立ち得ない者であることを悟るのです。

 しかし、先にも申しましたように、罪を悲しむ悲しみには希望があります。自分の破れを見せられる真実なる光に照らされて、おのれを悲しむ悲しみには希望があるのです。なぜなら、そこでまったく逆説的なことが起るからです。人間が神の前に立ち得ないものであることが明らかにされた時、まさにそこにおいて、《神の側から》の呼び掛けがなされるのです。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」と。それが今日、与えられている御言葉です。主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで」。

 これは神に帰ろうと思えば帰れる人間だから、「わたしに立ち帰れ」と言われているのではないのです。神に帰り得ない、とうてい神のもとに帰って立ち得ない人間であるからこそ、神の側から、「わたしに立ち帰れ」と語られているのです。

 ですから、その根拠は人間の正しさや功績ではありません。13節に記されているように、それは主が「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富んで」おられるからです。しかし、「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富んでいる」ということは、神が自ら苦しみを背負うことでもあります。実際、私たちの経験からもある程度はわかります。私たちが憐れみ深く、忍耐強くあろうとすれば、そこには必ず苦しみが伴います。ですから、実際、本当に身近な小さなことでさえ、憐れみ深く、忍耐強くあることができないではありませんか。神が恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富むということは、神が苦しむということです。そこには、神の犠牲があるのです。

 私たちはそこで改めてキリストの苦しみについて考えさせられます。神はキリストを私たちに遣わされました。それは、憐れみ深く、忍耐強い神の、最終的な語りかけでありました。神は苦しみを背負いつつ、語られたのです。ですから、それは必然的に、キリストの受難という形にならざるを得ませんでした。それが、神のもとに帰り得ないものを、神のもとに帰らせるということだったのです。それが、罪人に対して「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」と呼びかけるということだったのです。

 受難節に入ります。この期間は、キリストの御苦しみを覚える時です。しかし、私たちはセンチメンタルに、その苦しみを忍んで「イエスさま、かわいそう」と考えるような期間ではありません。そうではなくて、私たちはキリストの苦しみの中に、神の呼び掛けを聴かなくてはならないのです。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」という呼び掛けを聞くべき時なのです。

 それは不遜で傲慢な自己と向かい合って、私たちが心を引き裂くべき時です。「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と言われているのです。衣を裂くようなことは、誰だってするのです。形だけの嘆き、形式だけの罪の悔い改め。「主よ、わたしは罪人です」と口では言いますけど、心は他者に対しても、神に対しても、不遜で傲慢なままであるということはいくらでもあるのです。だから、「衣はそのままでいいから、心を引き裂け」と言われているのです。それが神ご自身の指定された、神への帰り方です。

 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」

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