2021年1月24日日曜日

「暗闇に差し込んだ光」

マタイ4:12-17

キリストはガリラヤへ退かれた
 今日の福音書朗読としてお読みしたのは、イエス様が公に宣教を開始したという場面です。イエス様の宣教活動はエルサレムの都ではなく、北のはずれのガリラヤから始まりました。イエス様がまずガリラヤに向かった次第について聖書はこう伝えています。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。

 「ガリラヤに退かれた」という表現からは、イエス様がガリラヤへと逃げて行ったという印象を受けます。しかし、ヨハネを捕らえたヘロデの領地であるガリラヤへと向かったのですから、明らかに「逃げた」のではありません。「退く」とは単純に中央のエルサレムから離れたガリラヤへと移動したという意味です。

 イエス様はあえてガリラヤへと移動し、そこから宣教を開始しました。それはなぜなのか。聖書は次のように説明しています。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』」(14‐16節)。つまりイエス様がゼブルンとナフタリの地方から宣教を開始したのは、旧約聖書に表されている神の御心が実現するためだったのだ、と語られているのです。

 イエス様が父なる神の御心に従って向かわれたガリラヤですが、引用された聖書箇所では「異邦人のガリラヤ」と表現されていました。もとよりガリラヤは古代イスラエルに属する地域です。そこに出て来ゼブルンやナフタリはイスラエルの部族の名前です。にもかかわらず、ここで「異邦人のガリラヤ」と呼ばれている。それにはそれなりの理由がありました。

 ガリラヤは北の境に位置するため、繰り返し北からの侵略にさらされた地域です。紀元前8世紀に決定的な出来事が起こりました。列王記下15章に次のように書かれています。「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った」(列王記下15:29)。ガリラヤは完全にアッシリアの占領下に置かれることとなりました。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのはそのゆえです。さらにはその後、バビロニア、ペルシア、マケドニアと次々に諸外国の支配下に置かれることとなりました。その間に入植者との混血も進みました。宗教的にも文化的にもイスラエルとしての純粋性は失われていきました。それゆえに「異邦人のガリラヤ」という表現はまた侮蔑を込めた呼称ともなっていきました。

 そのような「異邦人のガリラヤ」へとイエス様は向かわれました。中央のエルサレムからではなく、「異邦人のガリラヤ」から宣教を開始したのです。なぜならそれが父なる神の御心だったからです。神はそこで何をなさろうとしておられたのでしょう。次のように表現されていました。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。これが神のなさろうとしていたことでした。神が望んでおられるのは、暗闇に住む民が光を見ることです。真っ暗闇の中にいる者のところに、光が差し込んでくることなのです。神は人間が暗闇の中に生きることを望まれません。光の中を生きることを望んでおられるのです。

暗闇に住む民のところへ
 しかし、その「暗闇」とは何でしょう。「暗闇に住む民」と書かれていますが、それは何を意味するのでしょう。私たちは確かに世の中や人生や心の状態を表現する時に、「明るい」とか「暗い」という言葉を使います。明るい社会。暗い世の中。暗い心。暗闇に住むとはいったいどういうことでしょうか。

 先ほど、ガリラヤの置かれていた歴史的な事情に触れました。しかし、度々侵略を受けたことが暗闇なのでしょうか。アッシリアに占領されてしまったから暗闇なのでしょうか。異民族に支配されていることが暗闇なのでしょうか。そのような可哀想な人々だから「暗闇に住む民」と言われているのでしょうか。

 いいえ、そうではないのです。イザヤ書においても、また先ほど引用しました列王記におきましても、北方地域が占領されたことは、ただ可哀想で気の毒な出来事として書かれているのではありません。そうではなくて、それは神に背き続けてきたイスラエルの歴史における出来事として書かれているのです。すなわち、ガリラヤがアッシリアに占領され、さらにはイスラエル王国が滅ぼされてしまうしまうわけですが、そこに描かれているのはイスラエルの不信仰とその結果としての歴史なのです。確かに国を失ったことは不幸です。災いです。災いを受けることは暗闇の中に置かれることでもあると言えます。しかし、本当の暗闇は災いそのものの暗闇ではないのです。そうではなくて不信仰の暗闇なのです。神を失っている暗闇なのです。

 神を失っている暗闇と申しましたが、さらに言うならば、それは神の愛に背を向けている暗闇とも言えるでしょう。神様がどんなに愛してくださっていても、神様がどんなに呼びかけても振り返ろうとはしない。神様がどんなに手を伸ばし続けてくださっていても、神の方に向こうとはしない。神の愛を信じようとはしない。そのような暗闇です。

 そのような神を失った暗闇の中に「住む民」と語られているのです。細かいことを申し上げますと、実は引用元であるイザヤ書では「住む」ではなくて「歩く」という言葉が使われているのです。しかし、マタイはわざわざ「住む」という言葉を使いました。これは「住む」という意味でもありますし、「座る」という意味でもあります。「歩く」に対しては「座る」の方がイメージしやすいでしょう。「暗闇の中に座っている民」。そこに座り込んで動こうとはしない。暗闇を自分の場所としている。これが自分の居場所なんだと思っている。そういうことです。

 実際、イエス様がガリラヤで出会った人たちはそのような人たちだったのです。徴税人たちは自分が神に愛されているなんて、思ったこともなかったに違いありません。罪人たちは、自分たちはもうとうの昔に神から見捨てられていると思っていたことでしょう。神など私には全く関係ない。そうやって生きてきたのだろうと思います。イエス様が出会われた病気の人たち。自分は神から呪われているからこんな病気になったのだと言われてきた人たち。自分でもそう思ってきた人たち。暗闇が自分の場所だって思って、もう何年も何年も生きてきたに違いない。どんなに苦しくても辛くても、神様に背を向けたまま生き続ける暗闇。そのような暗闇を自分の場所として座っている人々。

 しかし、そのような徴税人や病気の人たちを神から遠い人々と思っていたファリサイ派の人たちはどうだったのでしょう。彼らは実に宗教的な人々です。一生懸命に神の律法を守って生きていました。しかし、それは厳しい父親の目を気にしながらビクビクして生活してる子供のようなものです。神に気に入られるように一生懸命にやってきたけれど、無条件で神から愛されている安心感など、生まれてこのかた経験したことがなかっただろうと思うのです。それもまた暗闇であると言えます。その暗闇の中に座っていた。彼らもまた暗闇の住人でした。

悔い改めよ。天の国は近づいた
 そのような暗闇の中に座っている人々のところにイエス様は向かわれたのです。それが神の御心だったからです。そして「暗闇に住む民は大きな光を見た」と書かれているのです。神はイエス・キリストを光として与えてくださったのです。暗闇の中に光は射し込んでいるのです。だから、人はもう暗闇の中に座っていなくてよいのです。暗闇こそが私の場所だ、なんて言っていなくて良いのです。イエス様が、暗闇を照らす光として来てくださったからです。イエス様は神の完全な現れとして来てくださいました。イエス様が完全な罪の赦しと共に、完全な神の愛を携えて来てくださったのです。だから、もう暗闇の中に座っている必要はないのです。

 それゆえに、主はこう言われたのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17節)。「天の国は近づいた」ということは、「救いは近づいた」ということです。そうでしょう。もう既にイエス様が光として来てくださったのですから。

 「暗闇に住む民は大きな光を見た」と書かれていますが、光を見るために必要な唯一のこと、それは光の方を向くことです。方向転換です。それを聖書は「悔い改め」と呼ぶのです。「天の国は近づいた」。これは神様がしてくださったことです。神様の方から救いをもって近づいてくださいました。しかし、暗闇の中に座っていることをやめて立ち上がり、光の方に向き直り、光の中を生き始めるようになるのは本人がすることです。プレゼントを差し出されても、自分で受け取らなければ自分のものにはなりません。太陽が昇っても、自分でカーテンを開けなければ、部屋は明るくなりません。どんなに光が照らしても、背を向けたままならば、見るのは自分の暗い影だけです。暗闇に住む民が大きな光を見るためには、その光の方に向き直らなくてはなりません。これは神様のすることではなく、人間がすることです。主は言われます。方向転換しなさい。悔い改めなさい。救いは近づいた。暗闇はあなたの住む場所ではないと主は呼び掛けておられます。

 さて、ここにいる私たちはどうなのでしょう。私たちが暗闇を感じているとするならば、それは新型コロナウイルスの感染が拡大しているからではありません。教会において、人数制限のために毎週礼拝に集まれないからでもありません。暗いとするならば、それは光に向いていないからです。ここに集まることのできない日曜日はどうでしょう。暗いとするならば、光に向いていないからです。どんなに社会が暗かろうと、日曜日は七日経ったら必ず巡って来るのです。この世にこられたキリストが、そして復活して今も生きておられるキリストが私たちを御もとに呼び集めてくださいます。そこで光の方を向いたら良いのです。光の方に向き直らない限り、光を見ることはありません。どんな状況に置かれても、ここに集まれなくても、主の日の礼拝をやめてはなりません。「暗闇に住む民は大きな光を見た」。そのように光の中を歩んでいきましょう。さらにはこの世界を光の中に招く神の呼び声として、この世に出ていきましょう。

(祈り

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