マタイによる福音書 4:1‐11
去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして最初の主日に与えられていますのは、イエス様が40日間荒野で断食した時に悪魔から誘惑を受けられたという聖書箇所です。
人はパンだけで生きるものではない
悪魔はイエスに言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)。これが第一の誘惑でした。
「空腹であるならばパンを盗んできなさい」という誘惑ならば、誰が見ても《悪魔らしい》誘惑であると言えます。しかし、石がパンになるように命じることは、そんなに悪いことでしょうか。石の一個や二個自分が食べるためにパンに変えたとしても、誰にも迷惑はかからない。別にかまわないではありませんか。しかし、これが悪魔の誘惑なのだ、と聖書は教えているのです。悪魔が悪魔らしくやって来ると思ってはならないのです。悪魔の誘惑は「なぜこれがいけないの」というところにこそあるのです。
どうしてこれが悪魔の誘惑なのでしょう。それはイエス様が何と言って悪魔を退けているかによって分かります。主はこうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(四節)。つまりイエス様はそこに、「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という真理から人間を引き離そうとする悪魔の誘惑を見ていたのです。
「石がパンになるように命じてごらん。パンが必要なんだろう。欲しいんだろう」。悪魔が語りかけます。もちろん、私たちに語りかけるなら、悪魔は別な言葉を使うに違いありません。「石がパンになるように命じてごらん」とは言わない。なぜならイエス様ならできるかもしれないけれど、私たちにはできないからです。しかし、私たちができることについて、同じように言ってくるに違いありません。「必要なものと手にいれなさい。欲しいものを手にいれなさい。どうしたら手に入れられるか、知っているんだろう。それを実行したらいいじゃないか。欲しいんだろう。手に入れなさい」と。
お腹がへっていたらパンが欲しくなる。人生に欠乏感を覚えていたら、それを満たす何かが欲しくなる。空腹で死にそうだったら、死ぬほどパンが欲しいに違いない。同じように、人生において死ぬほど欲しいものがあるかもしれません。欲しいものを手に入れるためだったら、どんなことだってするものです。悪魔はそんな私たちの思いを刺激します。「欲しいものを手にいれなさい」と。
しかし、そうやって欲しいものを手にするうちに、欲しいものを手に入れてこその人生だ、と思うようになるのです。願っているものを手にしてこそ生きる意味がある、と考えるようになるのです。しかし、本当はそうではないのです。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。欲しいものを手に入れてこその人生ではないのです。神の言葉を聞いてこその人生なのです。神の御心を聞き、神の望んでいることを実現してこその人生なのです。なぜなら、私たちに命を与え、私たちの人生に目的を与えておられるのは神だからです。人を本当に生かすのは神であり、神の言葉なのです。
「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエス様は、それが単に御自身の空腹に関わる誘惑ではなく、この全人類に及ぶ悪魔の誘惑であることを見て取ったに違いありません。それゆえ主は、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と言って悪魔を退けられたのです。
あなたの神である主を試してはならない
次に悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(6節)。
この誘惑も、表面的には全く悪魔らしくありません。神様が必ず守ってくださるよ。そう言っているのです。しかも聖書を引用して、そう言っているのです。「聖書にはそう書いてあるでしょ」って、まるで敬虔なクリスチャンみたいではありませんか。しかし、そのようなところにも、悪魔の誘惑があり得るというのです。悪魔は時として聖書を引用した極めて敬虔そうな言葉を通してやってくるのです。
この敬虔そうな悪魔の言葉のどこにイエス様は誘惑を見ておられたのでしょう。それはイエス様が何と言って悪魔を退けているかによって分かります。イエス様はこうお答えになりました。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)。イエス様はここに、「主を試す」ことへの誘惑を見ていたのです。
「主を試す」とはどういうことでしょう。主をテストするということです。人間がテストする側。神はテストされる側。人間は問う側。神は問われる側。人間が合格か不合格かを決める。人間が信ずるに価するか否かを決める。そういうことです。
旧約聖書にはイスラエルの民が「主を試した」という話が出てきます(出エジプト記17:1‐7)。モーセに率いられて荒れ野を旅していたイスラエルの民は、レフィディムに宿営しましたが、そこには飲み水がありませんでした。すると民はモーセに言うのです。「我々に飲み水を与えよ」と。水の湧いていないところで「飲み水を与えよ」というのは無茶な話です。要するに、「神が私たちと共にいると言うならば、神の奇跡によって水を出させよ」ということです。水を出せたら合格。神様もおまえも信じてやる。これからも従っていってやる。要するにそういうことです。
その時モーセは言いました。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」それは違うだろう、とモーセは言いたいのです。問われるべきは神ではなくて、人間の側なのです。窮乏の時こそ人間の方が信仰を問われているのです。あくまでも神に信頼して生きるのか。信じて従うのか。問われているのはイスラエルの民の側だったはずなのです。
人間が試す側。神は試される側。それは明らかにまともな神と人との関係ではありません。キリストが見せてくださった父なる神との関係は、どこまでも愛における信頼と従順に貫かれていたではありませんか。たとえ十字架へと続く道であっても、イエス様は父への信頼と従順をもって歩き続けたではありませんか。そのようなイエス様だからこそ、そこにある誘惑が見えていたのです。神を試みる者とならせ、神と人との交わりのあるべき姿から遠ざけようとする誘惑。これは全人類に及んでいる悪魔の誘惑であることをイエス様は見て取ったに違いありません。それゆえに、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と言って、悪魔を退けられたのです。
主を拝み、ただ主に仕えよ
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて言いました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9節)。これは、三つの誘惑の中で最も悪魔らしいし、分かりやすいもののように見えます。しかし、この言葉の中にイエス様がいかなる誘惑を見ておられたかは、悪魔を退けるその言葉から理解しなくてはなりません。主はこう答えられたのです。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)。
イエス様が引用したのは申命記6章13節です。その前後までを含めて引用しますと、そこには次のように書かれております。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない」(申命記6・13‐15)。つまりイエス様が引用したのは、もともと「悪魔を拝むな」と言っている言葉ではないのです。
そもそも悪魔を悪魔として礼拝する人など、世の中にそう多くはないのです。イスラエルの歴史を見ても、悪魔礼拝などしてはいないのです。しかし、人が殊更に悪魔を礼拝するつもりはなくても、いつの間にか悪魔に膝をかがめ、悪魔を礼拝していることはあるのです。実際、イスラエルはどのようにして、そうなってしまったのでしょうか。それは、繁栄を約束する豊穣神、バアルの神を拝むことによってでした。語りかけ導いてくださる神、信頼し従うべき神を求めるのではなく、ただ繁栄と幸福とを与えてくださる神、ただ「何かを与えてくれる神」を求めることによってです。
人間が主を畏れ、主を礼拝するのではなく、自己の繁栄と欲望の満たしを第一に求めている時、「いいですよ、それらすべてを与えてあげましょう」と言っているのは主なる神ではなく悪魔なのです。イエス様は、これが全人類に及ぶ悪魔の誘惑であることを見て取ったに違いありません。それゆえに、イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って、悪魔を退けられたのです。
神の御言葉によって生き、主にどこまでも信頼し、ただ主なる神のみを礼拝し、主に仕える。――そのような私たちの信仰生活を破壊しようと、悪魔は総攻撃をかけていることを知らなくてはなりません。実際、どうですか。新型コロナウイルスのパンデミックから約一年、教会にみんなが集まれなくなって約一年、私たちが一番攻撃を受けているのは、まさにそこではないですか。主を畏れ、主を礼拝する生活はどうなっていますか。主の御言葉に耳を傾け、聞き従っていく生活はどうなっていますか。
私たちは悪魔とその誘惑をいたずらに恐れる必要はありません。私たちと同じように試練と誘惑に遭われ、悪魔を退けられた御方、その御生涯において、十字架と復活において悪魔に対する完全な勝利を収められた御方が私たちと共におられるからです。今年もレント(受難節)を迎えました。毎年、この時期に与えられている悔い改めの期間です。この期間が与えられていること自体、大きな恵みです。神は今もなお私たちを決して見捨てることなく「立ち帰れ」と呼び掛けていてくださるということだからです。悪魔に打ち勝たれた勝利の主に寄り頼み、立ち帰らせていただきましょう。
(祈り)