2024年10月30日水曜日

祈祷会用:レビ記 11:1~46

レビ記11:1‐46

 10章までは、犠牲の献げ方、また祭司の任職など、礼拝に関わることが記されていました。11章からは、さらに、そのように礼拝する者に生活の仕方が示されています。礼拝は礼拝、生活は生活というように、分けてしまわないことが重要です。全生活が神のものとなることについて、レビ記は語っているのです。11章45節に「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれているのは、そういうことです。

 その生活の仕方に関する記述の最初に置かれているのが11章に見る「食物規定」なのです。なぜまず食べ物の話なのか。――食べるということは、生活における最も中心的な行為だからです。万人に共通する生活の要素だからです。まさに、毎日のこと、日常のことの代表だからです。

 食べてよいものは主として三種類です。陸上動物、魚、鳥、昆虫です。これは創世記の天地創造物語の分類とほぼ同じです。あの天地創造物語も祭司たちが伝えてきたので、共通な部分があるのはある意味で自然なことです。

 陸上動物については、条件が二つあります。ひづめが別れていることと反芻することです。魚については、ひれとうろこがあるものです。ちなみに「汚れたもの(ターメー)」と「汚らわしいもの(シェケツ)」という表現の違いは、触れて汚れるか汚れないかの違いです。《汚れたもの》は触れると汚れるものです。《汚らわしいもの》は食べると汚れるけれど、触れただけでは汚れません。そして、鳥については、食べてはいけないのは鷲とかみみずくのたぐい、すなわち猛禽類です。他の肉や死体を食べる鳥はアウトだということです。ちなみに、昆虫は、原則としてはすべて汚らわしいものです。ただ、いなごなどは食べてよいことになっています。洗礼者ヨハネはいなごと野蜜を食べていました。

 ところで、ここに書かれていることは、今日の生物学的な見地からすればかなり大雑把です。野ウサギは反芻しません。もぐもぐやっているだけです。こうもりは鳥類ではありません。しかし、実際にそのようなことが重要なのではないのです。重要なのは、区別があるということです。食べてよいもの、悪いもの――、その区別を神が決めているということが重要なのです。これについては後で触れます。

 今日みんなで読んだのは23節まででしたが、24節以下にも簡単に触れておきましょう。この部分は、その前と重複する記述が多いのですが、主に死骸の扱いについて書いています。簡単に言えば、死骸に触れるなということです。

 死骸の触れる場合というのは、例えば、持ち運ぶ場合です。持ち運ぶならば、夕方まで汚れます(28節)。その他、不可抗力の場合もあります。例えばは爬虫類などが死んで何かの上に落ちる場合です。するとそのモノが汚れます。器や道具の類は水に浸しておく必要がありますが、土器の場合は染みこんでしまうので、その土器は壊す必要があります。かまどや焜炉に落ちたら、それも壊す必要があります。その他、泉や溜池に死骸が落ちた場合などについては、その水は清いので飲むことができます。泉を埋めたり、溜池を埋め立てたりする必要はないのです。また、種もみに死骸が落ちた場合は、種もみは清いということになっています。しかし、水に浸されていて、そこに死骸が落ちた場合は、種もみは汚れます。こうしてざっと見てみると、かなり実際的な衛生的な側面が見えてくるように思います。

 さて、以上見てきたような食物規定が意味することは何でしょうか。それを理解する上で重要なのは冒頭で触れた45節です。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。

 出エジプトは、単に奴隷の民を苦しみから解放するための出来事ではないのです。主は「あなたたちの神になるために」エジプトから導き上ったのだといわれるのです。言い換えるならば、彼らを神の民とするために、聖なる者、すなわち「神のもの」とするために、そうしたのだということです。「神のものである」ということは、第一には、神の主権を認めるということです。わたしが主であるのではなく、神が主人であるということです。

 何かを食べるという行為は生活の根幹です。そして、それは人間の主体的な行為なのです。「わたしが食べる」のです。しかし、その「食べる」という行為について、神が命令を与えるのです。神は「これを食べて良い」と言い「これは食べてはいけない」と言われるのです。それは人間が区別するのではないのです。神が区別するのです。

 その区別の理由は何か、根拠は何か。ここには何も書かれていません。神は説明なさらない。そうです。神には説明の義務がないのです。神がイエスと言ったらイエスなのであり、神がノーと言ったらノーなのです。それを人間が受け入れる。それが神の主権を認めるということです。それが一番よく現れているのが、この食物規定なのです。


 私たちは、勘違いしているようなところがありまして、往々にして神は全てのことについて私たちに説明する責任があるかのように考えているのです。だから、神のなさることについて「分からない」、とか「おかしい」とか、「理にかなわない」とか「不公平だ」とかかぐだぐだ言うのです。しかし、本当はわからなくても良いのです。神は説明する義務などないのです。これを食べるなと言ったら食べてはいけないのです。往々にして私たちは神に向かってぐだぐだ言いすぎるのです。

 イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。もし食べてはならないものしかなかったら、食べないで死ぬわけです。極端なことを言えば、それを良しとするということ、それが神の主権を認めるということなのです。

 そのように、食物規定についての根拠は、基本的には書かれていないので分からないと思ってよいと思います。しかし、それでもなお見えてくるものもあります。それが昔からラビによってなされてきた「解釈」です。

 ユダヤ人のラビたちは、この食物規定については、節制を学ばせる上で有効である、と解釈してきました。そこには神の教育的な配慮があると見てきたのです。つまり、そこには食べてはならないものを食べないという訓練として、これを理解してきたのです。これは必ずしも文字通りの食べ物だけではありません。自らに制限を加えなくてはならない場面は人生においてたくさんあるのです。区別して退けなくてはならないものはあるのです。例えば、この世には多くの楽しみ方があります。しかし、ある楽しみは良しとしても、他のものは退けなくてはならないのです。あるいは、例えば、男と女がひかれあって恋愛をする。結婚をする。それはOKなのです。しかし、他人の妻を欲してはいけないのです。食べてはいけないものを食べるということは、つまり節制できないということは、自分を地獄にたたき込むことにもなるのです。そうならないために、節制をする練習をさせる神の配慮が、この食物規定にはるとラビたちは解釈してきたのです。

 あるいは、先に少し触れましたように、これは衛生的な観点からも解釈されてきました。そこには民の健康を守るための神の配慮があると見てきたのです。実際に荒れ野の旅にしても、その後の定住後にしても、水がふんだんにあるわけではありません。そのような中で何を食べるか、衛生をどう保つかは死活問題だったのです。そのような配慮がここに見られるというのは、死骸に関する記述からも分かりますし、猛禽類を食べるなということからも分かります。「いのしし」すなわち豚肉を食べるなというのも同じです。それはあぶないのです。

 つまり一方において、私たちは無条件に神の主権を重んじることが求められているわけですけれど、その背後に神の善意があることを信じて良いということです。神は説明なさらないこともあります。ですから、私たちには分からないこともあるのです。しかし、そこで大事なことは、黙して神の善意を信じるということなのでしょう。

 そして、もう一つ大事なことを45節に見ることができます。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と主は言われるのです。「聖なる者となる」とはどういうことか。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ているのです。区別された者として生きること、それが「自分自身を聖別する」ということであり「聖なる者となる」ということなのです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きることです。神のものとして生きることです。

 そのためには、常に自分たちが「神の民なのだ」ということを意識している必要があるのです。そこで「食物規定」はとても役に立つのです。なぜなら食べ物は毎日のことだからです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないわけでしょう。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを、強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。

 さて、この食物規定との関連で非常に重要な出来事が、新約聖書に書かれています。使徒言行録10:9-20です。これは異邦人伝道にとって決定的に重要な出来事となりました。そこで重要な言葉は「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」という言葉です。つまり、異邦人を神が清めたならば、もう清くないと言ってはならないのです。これがあるから、異邦人である私たちも教会に加えられているのです。

 しかし、だからこそなおさらに、私たちがそのような区別された民に加えられたことを意識していなくてはならないのです。クリスチャンであってもなくても同じです。洗礼を受けていても受けていなくても同じです、などとゆめゆめ言ってはなりません。食物規定は私たちには適用されません。私たちは異邦人ですから。しかし、食物規定を与えられた神の思いそのもは、しっかり私たち異邦人も受け止めなくてはなりません。すなわち、私たちは神の民なのだという意識はしっかりと保っていなくてはならないのです。



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