聖書 サムエル記上 8:1‐22
7章の終わりには「サムエルは生涯、イスラエルのために裁きを行った」(7:15)と書かれていました。前にも申しましたように、「裁きを行う」とは士師としてイスラエルを治めるということです。この後、イスラエルは王政に移っていくことになりますので、サムエルは士師記から続いている「士師」の系列としては最後の士師と言うことができます。
サムエルの活動については、「毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡り歩き、それらの地でイスラエルのために裁きを行い、ラマに戻った。そこには彼の家があった。彼はそこでもイスラエルのために裁きを行い、主のために祭壇を築いた」(16‐17節)と書かれています。地図を見ると分かりますように、主にベニヤミンの町々を中心に活動していたようです。
彼があちらこちらを巡り歩いていること、またその活動の中心であるラマに祭壇を築いたことから分かりますように、士師としてのサムエルはあくまでも宗教的な指導者なのであって、人々を権力をもって支配する存在ではありません。むしろ重要なことは、7章に見たように常に人々を主に立ち帰らせることだったのです。
そのような働きを続けてきたサムエルも年老いてきました。南の方まで行き巡ることは難しい。そこで、彼は南のベエル・シェバにおける働きをヨエルとアビヤという二人の息子たちに託しました。しかし、彼らはどうしたでしょう。「しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」(3節)と書かれているのです。
私たちは既に、祭司エリの家がどうなったかを見てきました。家庭における信仰の継承がいかに困難を伴う大きな問題であるかを思わされます。また、同時に神の民における「世襲」の問題性が明らかにされていると言ってよいでしょう。この世襲の問題は直接的に、その後に続く王制への移行の問題と関係しています。
さて、イスラエルの長老たちは協議の上、サムエルに申し入れました。「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(5節)。この要求の背景には、増大するペリシテ人の脅威があったものと思われます。
イスラエルにはこれまで、いわゆる職業軍人層というものが存在しませんでした。兵士は戦いのために召集されるのであって、常に戦闘に備えている軍隊ではないのです。一方、ペリシテ人の各都市国家は領主の専制的支配のもとに組織された強力な軍事体制を持っていました。いわゆる職業軍人がいるのです。その軍事力の差は歴然としていました。そのような脅威に脅かされているイスラエルが王を求めたこと、体制を新しくし王国となることを求めたことは、ある意味で当然の成り行きであったとも言えます。
しかし、この要求は「サムエルの目には悪と映った」(6節)と書かれているのです。聖書はまず、王制への移行を否定的な側面から見ているのです。ならばその問題性を聖書はどこに見ているのかをよく考えなくてはなりません。今日は、聖書が指摘している三つの点に注目したいと思います。それらはそのまま私たちに関係していることが明らかとなるでしょう。
第一に、まず注目すべきはこれが7章の直後に書かれていることです。時間的には隔たっています。しかし、内容的には7章を前提として書かれているのです。7章に書かれていたこと、それはイスラエルの勝利でした。思い出してください。その勝利は何によってもたらされましたか。それは軍事力によってではなかったのです。そうではなく、彼らが悔い改め、偶像を捨て、心を尽くして主に立ち帰ることにおいてでした。
イスラエルを守ろうとした時に、サムエルが民に要求したのは軍隊を組織することではなかったのです。サムエルには分かっていたのです。まず神との関係を正しくすることこそが、民を守る真の道なのであるということを。実は、それは士師記から繰り返されてきたテーマなのです。主が自ら戦われるのです。大事なことは、その主と共にあるかどうかなのです。ですから、王を持ち、王が組織する軍隊によって自らを守ろうとすること、すなわち王制への移行は、その真理を否定することに他ならなかったのです。
第二に、注目すべきは、彼らの言葉です。彼らは言いました。「今こそ、ほかのすべての国々のように!」彼らがしようとしていることは何でしょう。それはイスラエル自身のアイデンティティの否定に他なりませんでした。自らが存続するためには、自分のアイデンティティを捨て、周辺諸国のようにならねばならないと彼らは言っているのです。
その誘惑は、実はこの時に始まったことではありませんでした。カナンに定着した時から直面し続けてきた誘惑だったのです。そして、今日、キリスト者が常にさらされている誘惑でもあります。自分を守るためにはこの世の人のようにならなくてはならない。この世の方法、この世の知恵、この世のやり方に倣わなくてはならない、と。
イスラエルはもともとエジプトを脱出した時に、「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19:6)と語られたのです。その王国の王とは神御自身に他なりません。神の民は、主なる神を王として生きることにおいて、世界のただ中に祭司として立つのです。しかし、王制の要求は、その神が王として君臨することの拒否に他なりませんでした。主はサムエルに言われるのです。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」(7節)。
第三に、注目すべきはサムエルが告げた「王の権能」です。11節以下に書かれています。その内容は、息子と娘の徴用、土地の没収、産物の徴収、奴隷の徴用、羊の徴収です。ここで問題となることの一つはイスラエルの最小単位であります家(「父の家」としてしばしば言及される)の解体の危機です。すなわち、息子や娘、土地など、もともと家に属する者が、国家権力によって、そこから引き離されることになると言われているのです。
これが些細なことではなく、本質的な問題であることは、出エジプトの出来事を考えれば分かります。イスラエルにとって出エジプトの出来事の大きな意味は、彼らが礼拝する共同体となることにありました。しかも、老人から子供まで、すべての者がファラオの支配から解放されて礼拝することができることが重要だったのです。
モーセはファラオに言いました。「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」(出エジプト10:9)。この戦いは、一つには、礼拝する家族を回復するための戦いでもあったのです。そして、事実、戦いの最後における過ぎ越しのためには、「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない」(同12:3)と命じられ、家の柱と鴨居とに血が塗られたのです。彼らは家ごと解放されたのです。
しかし、礼拝する「家族」が王制への移行によって危機にさらされることになるのです。それはいわばエジプトへの逆行なのです。それは次の言葉によっても示されています。主は言われました。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」(17節)と。ここで私たちが思い起こしますのは、彼らがかつて、ファラオの奴隷であったという事実です。その時、神はイスラエルの民の叫びに耳を傾けられたのでした。しかし、彼らが王制のもとで再び叫びを上げる時、「主はその日、あなたたちに答えてくださらない」と言われているのです。
たいへん厳しい言葉です。しかし、この厳しさは正当性を持っています。なぜなら、今まで見てきたことにおいて明らかなように、彼らの要求の根本的な問題は、神が出エジプトにおいて与えてくださった恵みの放棄であるからです。自らの身を守るために、恵みを放棄し、もはや恵みの中に留まって生きようとはしないということなのです。
王政への移行は人間の目には賢い選択と見えたことでしょう。しかし、人間の目に賢く見えること、しかし、それが本当に神の目に賢いこととは限りません。王国は最終的に滅びることとなるのです。私たちもまた、人間の目にどれほど賢く映ることであっても、もし私たちがキリスト者とされたアイデンティティを否定し、キリストの十字架によって与えられた恵みを自ら投げ捨てるようなことであるならば、やがてその愚かさが明らかにされる時が来ることを知らなくてはなりません。最も大事なことは恵みに留まることなのです。
2025年7月2日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 8:1~22
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