2025年1月5日日曜日

「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」

 2025年1月5日 主日礼拝説教

聖書:エレミヤ書 31:15-17

泣き止むがよい
 「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる」(16節)。本日の第一朗読において読まれた御言葉です。「もう泣かないで」と私たちも誰かに言うことはあるかもしれません。あるいは私たちが泣いているときに、そのような言葉をかけられることはあるかもしれません。しかし、本当の意味で「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と人に言うことができるのは神様だけです。「あなたの苦しみは報いられる」と宣言することができるのは神様だけだからです。また、17節に見るように、「あなたの未来には希望がある」と本当の意味で語ることができるのは、神様だけだからです。

 ここで泣いているのはラケルという人です。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから」(15節)。

 ソロモン王の治世の後、イスラエルな南北に分裂しました。北イスラエル王国を代表していたのはエフライムという部族でした。ですからエレミヤ書でも北王国がしばしば「エフライム」と呼ばれています。ラケルという女性は、エフライム族のご先祖に当たります。いわば北イスラエル王国の母ともいうべき象徴的な存在であると言ってもよいかもしれません。その母なるラケルが泣いているのです。どうしてか、北イスラエル王国が滅びたからです。紀元前八世紀、当時の超大国であったアッシリアの軍事侵攻によって北イスラエル王国は滅ぼされてしまいました。「息子たちはもういないのだから」(15節)とは、北イスラエル王国の滅亡について語っているのです。

 時を経て、やがて南のユダ王国も北イスラエル王国と同じ道をたどることとなりました。南王国はバビロニアによって滅ぼされてしまいました。エレミヤ書がこのように書物としてまとめられたのは、南王国が滅びた後のことです。つまり、今日お読みした預言の言葉は、国を失った人たちによって、繰り返し、繰り返し読まれてきたということです。もともとは先に申しましたように、北王国に関する預言の言葉です。しかし、国を失ったユダの人たちは、自分たちに対する神の語り掛けとしてこの言葉を聞いたのです。かつて北王国に対して「泣きやむがよい」と語られた神は、彼らの神でもあるからです。

 そして、時を経て今この時代に、ここにいる私たちもまた同じ言葉を耳にしているのです。かつて大きな苦しみの中で涙を流していた人々に、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と語られた神は、ここにいる私たちの神でもあるからです。かつて「あなたの苦しみは報いられる」と語られた神は、ここにいる私たちの神でもあるからです。私たちはこの主の御言葉を私たちへの語り掛けとして受け止めるために、これを語られた神がいかなる御方であるかを知らなくてはなりません。

立ち帰らせてください
 そこで重要なことが一つあります。神は語られる神であるだけでなく、耳を傾けて聞いておられる神でもあるということです。かつて主が人々に語られた時にも、その前に主が確かに聞いておられたことがあるのです。今日の朗読は17節まででしたが、その続きをお読みします。18節を御覧ください。主はこう言われるのです。「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた」と。そして、重要なのはその内容なのです。次のように続きます。

 「あなたはわたしを懲らしめ、わたしは馴らされていない子牛のように、懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ、若いときのそしりを負って来ました」(18‐19節)。

 これが神様の耳にした嘆きの声です。ここで「エフライム」が指しているのは滅びた北王国です。エフライムはどうして嘆いているのか。ただ不幸を嘆いているのではないのです。国家の滅亡という災いに遭ったことを嘆いているのではないのです。そうではなくて、彼は悔いているのです。自分の腿を打って悔いているのです。

 何を悔いているのでしょうか。彼の表現によれば、「馴らされていない子牛のよう」であったことを悔いているのです。「馴らされていない子牛のよう」であったから懲らしめを受けた。確かに「懲らしめを受けた」のですが、明らかに神によって「懲らしめを受けた」ことを恨んではいないのです。むしろそれは当然だったと思っているのです。だから懲らしめられたこと自体を嘆いているのではないのです。懲らしめを受けなくてはならないような自分であったことを嘆いているのです。「馴らされていない子牛のよう」な自分であったことを悔いて嘆いているのです。

 「馴らされていない子牛のよう」であったとは、要するに自分のしたいように振る舞う子牛ということです。飼われている子牛でありながら、自分が主人であるかのように振る舞う子牛です。自分の望むまま、自分の欲するがままに行動する子牛です。しかし、これを人間に置き換えてみるならば、決して珍しい姿ではないでしょう。

 確かに、「馴らされていない子牛」のような姿は、しばしば私たち自身の姿でもあります。神が何を願い、神が何を望んでおられるかということに無頓着に生きている私たちの姿です。自分の望んだとおりになることが最善であると、自分の思い通りに生きられることが幸福であると信じて疑わない私たちの姿です。しかし、実際には何が最善であるかが分かったいないので、目の前にある美味しそうなものに動かされ、自分の欲に振り回されて生きている、そんな私たち人間の姿です。

 そのような馴らされていない子牛のようであったことを彼は悔いているのです。だから立ち帰りたいと思っているのです。本来の姿に立ち帰りたいと思っているのです。本来従うべき御方のもとに立ち帰りたいと思っているのです。彼は言うのです。「どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です」(18節)と。

 「わたしは立ち帰ります。立ち帰りたい。本当に立ち帰りたい。立ち帰らせてください。」そのように心から願う人にとって、今受けている苦しみは、もはや単なる災いではありません。それは人を立ち帰らせてくださる神の愛の現れでもあるのです。そのように神によって立ち帰らせていただく時、彼らはこう言うのです。「わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ、若いときのそしりを負って来ました」(19節)。

 この言葉はイエス様の語られた放蕩息子のたとえ話を思い出させます。父のもとから離れて己が望むままに生きて来た息子が、やがて飢饉に遭い、食べるものもなく、ボロボロになって父のもとに帰ってきます。その時、彼は父にこう言うのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)。

わたしは彼を憐れまずにはいられない
 そのように自分が馴らされていない子牛のような者であったことを悔い、恥じ入りながら神のもとに帰るエフライムの声を神は確かに聴かれました。そのエフライムに対して、神はこう言われるのです。「エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる」(20節)。

 確かに、北王国の滅亡は、神が北王国を御前から退けたという出来事でした。しかし、御前から退けることが神の最終的な目的でも本意でもないのです。神はそうすればするほど、彼らを深く心に留めておられたのです。確かに王国の滅亡は彼らにとって苦しみであり悲しみであったに違いない。ラケルは泣いていたのです。しかし、それはまた神御自身の苦しみでもあったのです。「わたしは彼を憐れまずにはいられない」と主は言われるのです。

 そして、その言葉を滅びた南王国の人々も改めて聞いていたのです。捕囚となった人々はこれを自分たちへの語りかけとして聞いたのです。そして、他ならぬ自分たちへの語りかけとして聞いた人は思ったに違いないのです。私たちも確かに馴らされていない子牛のような者であった。立ち帰りたい。主に立ち帰りたい。主よ、立ち帰らせてください。私たちは立ち帰ります、と。そして、主は彼らにも語ってくださったことでしょう。「あなたはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。わたしはあなたを憐れまずにはいられない」と。

 これが聖書の伝える神様なのです。さらに言うならば、そのような神の思いが形を取って到来したのがイエス・キリストに他ならないのです。神に背を向けた世界に対する神の胸の高鳴り、神に背を向けた人々を憐れまずにはいられない神の憐れみ。その神の心を語る言葉としてキリストは来られ、今も教会によって私たちに伝えられているのです。それゆえに、「立ち帰りたい。主に立ち帰りたい。わたしは馴らされていない子牛のような者であった。立ち帰りたい。主よ、立ち帰らせてください」と願う人は、今も、神の憐れみに出会うことができるのです。主は言われるのです。「あなたはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか」と。

 このような神がおられるのです。憐れみの神がおられるのです。この神こそ、私たちが信じ、より頼み、礼拝している神様です。そして、そのような神が言われるのです。いや、そのような神であるからこそこう言われるのです。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」。そして、言われます。「あなたの未来には希望がある」と。本当の意味でそのように語ることができるのは、イエス・キリストをこの世に送られた憐れみの神であるこの御方だけなのです。

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