エレミヤ書31・31‐34
私たちはこの後、二年ぶりに聖餐を行います。今月は四回に分けて行いますので、必ずしも今日、皆が聖餐を受けるわけではありません。また、ここに身を置くことができない人は、聖餐を受けることはできません。しかし、聖餐を再開するこの日、皆が思い起こすべき御言葉があります。聖餐において、いつも読まれる御言葉です。
コリントの信徒への手紙一11章23節以下には次のように語られています。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:23‐26)。ここに「新しい契約」という言葉が出てきます。私たちは聖餐が再開される今日、私たち自身が神との「新しい契約」の内にあることを改めて思い起こすことが大事なのです。
新しい契約と古い契約
旧約聖書において「新しい契約」について語られているのは、本日お読みしましたエレミヤ書31章31節以下です。「新しい契約」について語られるのは、当然のことながら、それに対して「古い契約」があるからです。新しい契約を理解するためには、まず古い契約を理解しておかなくてはなりません。
古い契約については「かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」(32節)と表現されています。これは主が、エジプトから導き出された民と、シナイにおいて結ばれた契約のことです。この契約において中心的位置を占めるのは十戒です。神の恵みによって救われた民は、シナイにおける契約により、十戒を持つ民とされました。
十戒の内容は、神を愛すること、そして隣人を愛することとしてまとめられます。神は地上に十戒を持つ民が存在することを望まれました。それは、この地上において、神を愛し、互いに隣人を愛する民が存在することを神が望まれたということを意味します。そして、彼らが神の律法を持つ民とされたのは、彼らが地上の諸国民の祝福となるためでありました。
しかし、今日の聖書箇所において、「彼らはこの契約を破った」と語られております。確かに私たちが旧約聖書に見るのは、「この契約を破った」という短い言葉に要約される、イスラエルの民の歴史です。契約というものは、両者の真実において成り立ちます。片方が破ればそれで終わりです。そうです、終わりのはずでした。しかし、エレミヤは、契約の終わりとしか見えない国家の滅亡という出来事において、次のような主の御言葉を聞いたのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と。
人間の罪によって古い契約は破られたのです。ならば、新しい契約は、罪の赦しに基づいて初めて成り立ちます。ですから、34節の最後にも、次のように語られているのです。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。
これらの言葉を背景として、イエス様はあの夜、弟子たちに「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と語られたのでした。主が語られた新しい契約のための「わたしの血」によって指し示されていたのは、キリストの血による罪の贖いでした。十字架において流される血によって与えられる、罪の赦しでした。イエス様は、自らが十字架にかけられるその日を、新しい契約の結ばれる日として見ておられたのです。
さて、この新しい契約を結んでくださった主は、かつてシナイにおいて古い契約を結ばれた主に他なりません。ということは、新しい契約においても、そこにおいて神が望んでおられることは同じである、ということを意味します。
私たちは、キリストの十字架を、ただ私たちの個人的な罪の赦しのためであると考えてはなりません。それが究極の目的ではありません。神が望んでおられるのは、この地上に、神を愛し、隣人を愛する民を持つことなのです。キリストがこの地上において血を流されたのは、まさにその目的のためなのです。ですから、私たちは聖餐を個人的には行いません。キリストとの関係をただ個人的に喜ぶことをいたしません。私たちは、新しい契約の民として、《共に》聖餐にあずかるのです。新しい契約の民として、《共に》礼拝をささげるのです。集まるということは、信仰において本質的なことなのです。
イスラエルの家と異邦人キリスト者
それは、新しい契約を、「イスラエルの家、ユダの家」と結ぶ日が来る、と言われていることからも分かります。神は個人と新しい契約を結ばれるのではありません。新しい契約は、あくまでも神と民との契約なのです。私たちが神の民に属している限りにおいて、私たちは神と新しい契約の関係に結ばれるのです。神の民を離れたところには、新しい契約による神との関係もありません。
しかし、この事についてはなお一考を要します。ここには「イスラエルの家、ユダの家と」と書かれているのです。私たちは「イスラエルの家、ユダの家」でしょうか。エレミヤの預言において語られている新しい契約は、あくまでも回復されたイスラエルと結ばれるものなのです。私たちは元来イスラエルの民ではありません。聖書的に言うならば「異邦人」です。ですから、ここに書かれていることは、本来、私たちにはまったく関係ないことなのです。そのまま私たちに当てはめられることではないのです。事実、イエス様が最後の晩餐においてあの言葉を語られた時、そこに異邦人はいませんでした。主の言葉を聞いたのは、ユダヤ人である弟子たちだけだったのです。
ではなぜ、異邦人である私たちが、新しい契約の杯にあずかっているのでしょうか。それは神の特別な恵みの計画によらずしては、あり得ないことなのです。 パウロは、この本来あり得ないはずの出来事を、オリーブの木の接ぎ木に喩えております。
ローマの信徒への手紙11章17節以下をお読みいたします。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(ローマ11:17‐20)。
ここで野生のオリーブと言われているのは異邦人である私たちのことです。私たちは接ぎ木されているのです。本来イスラエルの家に属さぬ者でありながら、信仰のゆえに新しい契約にあずかっているのです。 このイメージを私たちはしっかりと心に留めておかなくてはなりません。歴史を貫いて神が生かしてこられたオリーブの木に接がれているゆえに、私たちもキリスト者として生きられるのです。
完成へと向かう祝い
さて、新しい契約は、神と民との間に結ばれるのであって、神と個人との間に結ばれるのではない、と申しました。しかし、私たちは、神にとっては全体としての神の民との関係だけが大事なのであって、個々の人間との関わりは二次的な意義しか持たないかのように考える必要はありません。いや、それどころか、新しい契約においては、私たちの個々の人格の最も深いところに、神御自身が関わってくださるのです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(33節)と主は言われるのです。
古い契約において、神の律法は石の板に記された言葉として与えられました。それはいわば民全体に外から与えられた言葉でありました。新しい契約においては、神御自身が人間存在の最も深い部分に働きかけてくださるのです。そこに、神御自身の戒めを書き込んでくださるのです。私たちは、神を外から命じられる方としてではなく、内側から変革し突き動かしてくださる御方として経験するのです。私たちは神を、私たちの内に住んでくださる神、聖霊なる神として経験するのです。
イエス様は、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われました。そして、その言葉のとおり、主は十字架にかかられ、血を流して死なれました。しかし、私たちは聖金曜日から三日目にはイースターが来ることを知っています。そして、七週間後にはペンテコステの祝いが続くことを知っています。キリストは十字架にかかられただけではなく、復活され、天に上げられ、聖霊を注いでくださったのです。罪の赦しがすべてなのではありません。その先には、聖霊による聖化の御業があるのです。
一方、私たちはまた、聖霊の御業がいまだ完成してはいないことを知っています。このエレミヤの預言はまだ完全には成就してはいないのです。「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」(34節)。このような姿を、いまだ私たちは目にしておりません。しかし、既にキリストは血を流されました。既に新しい契約は結ばれました。既に新しい契約に基づく神の御業は始まっております。私たちは、そのことを喜び祝うことが許されているのです。私たちはそれゆえ、今日も、聖餐を行います。私たちは主の望んでおられることが必ず実現することを信じて、新しい契約の民として聖餐を祝うのです。
(祈り)
2022年3月6日日曜日
「古い契約と新しい契約」
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