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2018年12月16日日曜日

「私たちに対する神の御心」

1テサロニケ5:16-24

神が望んでおられること
 礼拝堂のアドベントクランツの第3のキャンドルが灯されました。クランツのキャンドルには一本一本意味がありまして、第一のキャンドルは「希望」、第二のキャンドルは「平和」、そして今日灯された第三のキャンドルは「喜び」です。ちなみに、来週灯される第四のキャンドルは「愛」を意味します。来週は本来、アドベントの第四週ですが、慣例に従いまして「クリスマス礼拝」として御子の御降誕を併せて祝います。

 ということで、第三のキャンドルが灯された今日、与えられているテーマは「喜び」です。第二朗読において、次のような御言葉が読まれました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(16‐18節)。

 これはパウロの書いた手紙の一部です。結論部分に書かれている大事なことです。しかし、以前のパウロならば、全く違ったことを書いていたに違いありません。彼は生粋のユダヤ人でした。生まれて八日目に割礼を受け、幼き日より律法を学んで育った人でした。後にはガマリエルという高名なラビのもとで厳しい律法の教育を受けた人でした。ファリサイ派のパウロ、またの名をサウロ。以前の彼ならば、きっとこう書き送ったに違いありません。「いつも神の戒めを守りなさい。絶えず神の戒めを守りなさい。どんなことにおいても神の戒めを守りなさい。これこそ、神があなたがたに望んでおられることです」と。

 戒めを守ることがまず先決だったのです。従順であること、律法を遵守する正しい人間であることがなければ何も始まらないのです。何か良きものを神から受けるとするならば、それは神への従順、自分の義を差し出してこそ、はじめて受けることができる。救いでさえも、永遠の命でさえも、律法遵守の報いであると信じていたのです。かつてイエス様のもとに来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた青年がいました。その問いは、パウロの問いでもあったはずです。どんな善いことをしたらよいのでしょうか。これで十分でしょうか。まだ不十分でしょうか。いったい何をしたらよいのでしょうか。

 しかし、そのようなパウロが、キリスト・イエスを通して、驚くべき神の御心を知ったのです。神はわたしたちを愛しておられる。まことに愛されるに値しない私たちを、神は愛しておられる。独り子を賜うほどに、独り子を十字架にかけて罪の贖いの犠牲とするほどに、そのようにして私たちに罪の赦し、私たちを救おうとされるほどに、――それほどまでに私たちを愛しておられる!その驚くべき事実を知ったのです。

 そのように、キリストにおいて完全に現された神の愛と恵みの前で、神との取引は意味を持たなくなりました。これだけ律法を守りました。祝福してください。救いをください。そんな取引は無意味となりました。パウロは「イエス・キリストにおいて神が望んでおられること」を知ったのです。神が望んでおられるのは、神の好意を得ようとして一生懸命に差し出す熱心さではない。神が見たいと望んでおられるのは、私たちが十分に従順であるというアピールではないのです。そうではなくて、神が見たいと望んでいるのは、神の子供たちの輝いた笑顔なのです。天の父に向けられた、輝いた笑顔なのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

いつも喜んでいなさい
 とはいえ、「いつも喜んでいなさい」という言葉に出会う時、私たちの自然の反応は、「それは無理でしょう!」ということであるかもしれません。なぜなら、私たちの生活には、私たちから喜びを奪うに十分な、ありとあらゆる要因が満ちているからです。しかし、当然の事ながら、パウロはそのようなことを重々承知の上でこれを書いているのです。彼自身、喜びを奪うような幾多の苦難を味わってきた人ですから。また、宛先であるテサロニケの教会はパウロ自らが伝道して生まれた教会です。パウロが初めてテサロニケを訪れ、福音を宣べ伝えた時には、反対者による暴動が起きたのです(使徒17章)。パウロとシラスは夜逃げをするようにしてテサロニケを後にしたのです。パウロが去った後、テサロニケの信徒たちがどれほど大きな苦難の中に置かれているかは、よく分かっているのです。分かった上で、それにもかかわらず、パウロは彼らに言うのです。「いつも喜んでいなさい!」

 ここで私たちは、もう一度パウロがこれを書いている理由を思い起こさねばなりません。神の子供たちが「いつも喜んで」いることは、他ならぬ神が望んでおられることなのです。神が望んでおられる――ならば神が与えてくださる、ということでもあります。ここで語られている喜びは、明らかにこの世が私たちに提供する喜びではありません。そのような喜びであるならば、苦難によって奪われてしまうのでしょう。これは神が与えてくださる喜びです。天来の喜びです。

 パウロが別の箇所でこう言っています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と。確かに信仰者の生活経験には、聖霊によって与えられる喜び、天来の喜びというものがあることを私たちは知っています。そして、暗闇が深ければ深いほど星の輝きが際立つように、天来の喜びもまた苦難や悲しみの闇の中において輝き出でることを知っています。パウロとシラスがフィリピにおいて不当に鞭打たれ、投獄されてもなお、その獄中で喜びに満ちて神を賛美していたことを聖書は伝えています(使徒16:25)。三年半前にネパールで大地震がありましたが、まだ震災の傷癒えぬ被災地をお訪ねした時、礼拝に集まってきた人たちの内に見たのは、災害によっても奪われることのない天来の喜びでした。神と共にあることの喜び。魂の底から湧き上がる聖霊による喜び。そのような喜びを神が与えてくださる。私たちは聖書からも、身近な信仰者の証しからも、あるいは多かれ少なかれ自らの生活経験からもそのことを知っています。

 要は、そのような神から来る喜び、聖霊の与えてくださる喜びが、私たちの生活の基調音となっているか、私たちの生活全体を支配するようになっているか、ということなのでしょう。「いつも喜んでいなさい」とパウロは言うのです。苦難や悲しみや思い悩みが私たちの生活を支配するのではなく、神から来る喜びが私たちの生活を支配し続けるようになるには、いったいどうしたらよいのでしょうか。そこでパウロはさらに「絶えず祈りなさい」と言うのです。また、「どんなことにも感謝しなさい」と言うのです。

祈りと感謝
 「絶えず祈りなさい」。これはいったい何を意味するのでしょうか。それを理解するには、そのように言っている人に目を向けるのが良いのでしょう。パウロは絶えず祈っていた人なのでしょう。それが「ひざまずいて祈りの言葉を口にする」ことを意味しないことは明らかです。実際、この手紙を書いている時には、パウロはそのような意味で祈っているわけではありませんから。パウロの場合、手紙を書く時には口述筆記だったでしょうから、パウロはテサロニケの信徒を思いつつ、手紙の文章を語っているのです。

 しかし、彼はそのように文章を語りながら手紙を書いているのですが、そこに自然と「祈りの言葉」が入るのです。例えば、3章の終わりは手紙が一区切りするところなのですが、そこでパウロはこのように語るのです。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:12‐13)。このような祈りの言葉は他の手紙にも見られます。

 つまりこの手紙を書いている時も、パウロは常にパウロは神の臨在を意識しながら生きているのです。神との交わりの中にあるのです。パウロはまさに神と共に生きているのです。パウロが「絶えず祈りなさい」と言っているのは、こういうことなのでしょう。

 そのように神と共に生きる生活、「絶えざる祈りの生活」はどのように形づくられていたのでしょうか。興味深いことに、この手紙の冒頭には、挨拶に続いて次のような言葉が書かれています。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」(1:2)。この場合、「わたしたち」はパウロとシルワノ(シラス)とテモテです。「祈りの度に・・・」と言う時、それは三人が集まって祈る時を指しているのかもしれません。あるいは個々の祈りの時を指しているのかもしれません。恐らく両者でしょう。いずれにせよ、それは実際に神に向かって文字通り祈っている、「祈りの時」を指しているのです。

 逆説的ですが、このように、絶えず祈る生活は、ある特定の「祈りの時」によって形づくられるのです。「いつでも祈れる」と思って、具体的に祈りの時を持たない人は、往々にして「いつでも祈らない」人になってしまうものです。神の臨在を常に意識する生活は、神の臨在を特別に意識する時間を持つことによって形づくられるのです。

 そして、そのように形づくられる、神の臨在を常に意識し、神と共に生きる生活、絶えず祈る生活は、当然のことながら、絶えず神に信頼して生きる生活ともなるのでしょう。それゆえパウロはこう続けるのです、「どんなことにも感謝しなさい」と。感謝は神への信頼の具体的な現れです。

 その対極にあるのはどのような姿かを思う時、思い起こされるのは荒れ野を旅していた時のイスラエルの民の姿です。彼らはエジプトから救い出されました。彼らは葦の海の中に道を開かれる神の御業を見せていただきました。彼らは、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって導かれました。しかし、彼らは荒れ野で欠乏を経験した時、つぶやいたのです。彼らは不満を言い、不平を述べ立てたのです。エジプトから導き出されたのに、荒れ野の旅も主に導かれているのに、彼らは言ったのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」(出エジプト16:3)。不信仰の具体的な表現は不平、不満、つぶやきです。信頼の具体的な表現は感謝です。パウロは言います。「どんなことにも感謝しなさい」。

 そのように「絶えず祈りなさい」、「どんなことにも感謝しなさい」と共にあって、初めて「いつも喜んでいなさい」という言葉が意味を持つのです。そのようにして、神から来る喜びが私たちの生活を支配し続けるようになるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。


 さて、アドベントの第三週にこの御言葉が与えられて、私自身は、実際に自分がこの御言葉の示している生活からいかに遠いかを思わずにはいられませんでした。皆さんはどうでしょうか。しかし、今どれほど遠くても、私はこの御言葉が指し示している生活に憧れます。そこに近づきたいと願います。メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、この聖書箇所について次のように書いていました。「これがキリスト者の完全である。わたしたちはこれ以上すすみ得ない。そして、これに到達しないで留まる必要はない。」そうです、これに到達しないで留まる必要はありません。共に、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する信仰生活を求めてまいりましょう。

(祈り)

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