列王記下 2:1‐15
エリヤとエリシャの別れの日
今日の第一朗読にはエリヤという人が登場しました。彼はモーセと並んで旧約聖書を代表する人物の一人です。彼は紀元前9世紀にイスラエルにおいて活動した預言者でした。預言者というのは、神の言葉を告げ知らせる人です。預言者は誰に対しても神に遣わされた者として神の言葉を語ります。神が遣わされるならば、王に対してもはばかることなく神の言葉を語ります。もしその王が神に従おうとしない王であるならば、当然のことながら預言者は迫害を受けることになります。
エリヤが預言者として活動を開始した頃、イスラエルを治めていたのはアハブという王でした。この王の治世は預言者たちにとって、まさに苦難の時代でした。もっとも主の預言者たちを憎み、迫害を指示したのは王自身ではなく、その后イゼベルであったようです。実際に彼女が主の預言者たちを切り殺したことを聖書は伝えています(列王記上18:4)。そのような苦難の時代に、他の預言者たちを指導し、自ら神の言葉を語り続け、神の御心に背いた王国に立ち向かったのが、このエリヤという人物でした。
本日、エリヤと並んで登場しますもう一人の人物はエリシャです。エリヤとエリシャの出会いは列王記上19章に書かれています。エリシャはもともと農夫でした。その時、彼は畑を耕していたのです。するとエリヤが彼に近づき、エリシャのそばを通り過ぎる際に、黙って自分の外套を彼に投げかけました。言葉は交わされずとも、エリシャはすぐに悟りました。自分が預言者として召されていることを。
エリシャはエリヤの後を追います。彼は言いました。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」。エリヤは言います。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。わたしが招いたのではない。神があなたを召されたのだ。そのことを信じるなら着いて来なさい。――要するに、そういうことです。もちろんエリシャはそのつもりでした。神が呼んでおられる。それゆえに、預言者としての訓練を受けるため、彼はエリヤに従い、エリヤに仕えてきたのです。これがエリヤとエリシャの出会いでした。
しかし、出会いがあれば別れがあります。この世における交わりは永遠ではありません。今日朗読されましたのは、エリヤの人生最後の日を伝える聖書箇所です。エリヤとエリシャの別れの時は近づいておりました。それは通常の言葉で言うならば「死別」ということになるのでしょう。しかし、今日の箇所に見るように、エリヤは死を見ることなく天に移された者として伝えられています。
いずれにせよ、エリシャはエリヤが取り去られる時が近いことを予感していました。ですからこの日も、ギルガルに残るようにと言われても、エリシャはエリヤを離れようとはしませんでした。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」そう言ってエリシャはひたすらエリヤについていくのです。
エリヤが向かった先は、ベテルとエリコでした。そこには預言者の仲間たちがいたからです。迫害の中を生き延びた人々です。彼らは、エリヤが世を去った後、なおも苦難の時代を預言者として生き抜かなくてはなりません。既にアハブは世を去りましたが、イゼベルは依然として王の母として君臨しています。それでも彼らは主の言葉を語り続けなくてはならない。そのような人々を心にかけ、彼らを力づけるために、エリヤは足を運んだのでした。世を去ろうとしている者が、世に残る者に、最後の言葉を与えるために。
もちろん、エリヤはベテルとエリコの預言者たちに、あからさまに別れを告げたわけではありません。しかし、共に主に仕えてきた預言者の仲間たちには、その時が来ていることが分かっていたのです。神はエリヤをこの世から取り去ろうとしている。もう二度とお会いすることはないだろう、と。ですから彼らはエリヤに最も身近に仕えていたエリシャに語りかけます。「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」。エリシャは答えます。「わたしも知っています。黙っていてください」。
いつかはこの日が来る。分かっていたのです。自分が召されたのは、エリヤが世を去った後にも、なおも主の言葉を世に語り続けるためであると、エリシャにはよく分かっていたのです。しかし、分かってはいても、この世における別れは悲しい。身を引き裂かれるように辛い。「わたしも知っています。黙っていてください」。この言葉からエリシャの悲しみ、苦しみがひしひしと伝わってまいります。
エリヤの神、主はどこにおられますか
エリヤとエリシャは、そのようにベテルとエリコを訪問した後、ヨルダンのほとりにたどり着きました。そして、「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った」(8節)と書かれています。かつてイスラエルの民は、このヨルダンを渡って約束の地に入り、そこに王国を築きました。しかし、今エリヤは、そのヨルダンを逆に渡って約束の地から出て行くのです。それはエリヤが、いわばイスラエルの歴史の外へと歩み出ることを象徴するような行為でした。エリヤは神から与えられたイスラエルに対する責任を解かれたのです。エリヤの時代は終わりました。
そのことをはっきりと示した上でエリヤはエリシャに尋ねます。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」。エリシャは答えます。「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください」(9節)と。律法によれば親の財産を分与される時、長子は二倍の分け前を得ます(申命記21:17)。エリシャが「霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った時、彼は長子としてエリヤの跡継ぎになること、霊的な後継者とされることを求めたのです。
もともとエリシャがエリヤの後継者であることは、誰の目にも明らかでした。しかし、エリシャはそれで満足しませんでした。真にエリヤの働きを継続するために、自らが霊的に備えられることを求めたのです。エリシャには分かっているのです。エリヤがしてきた戦いは、ただ上からの力による戦いであったということ、神の霊による戦いであったことを。そのようにエリヤの内に働いていた霊を、「わたしにも受け継がせてください」とエリシャは願ったのです。
エリヤは答えました。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない」(10節)。真にエリヤの後継者となるためには、見るべきものがある、と言うのです。何を見なくてはならないのでしょう。エリヤが「取り去られる」ということです。
「取り去られる」とは、その後に見るように、「天に上げられる」ということです。つまり、これは単なる悲しい別れなのではなくて、エリヤは《神によって》取り去られるのだ。天に上げられるのだ。神がエリヤを天に引き上げるとするならば、その働きは神が後継者に託すのです。そのようにして、「天に上げられたエリヤ」の業が継続されることになる。そのことをエリシャは見て悟らなくてはならないのです。そうしてこそ、本当の意味でエリヤの後継者となることができるのです。
そして、確かにエリシャは「見る」ことになりました。「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」(11節)。エリシャは叫びます。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」。そう叫んで彼は衣を引き裂きます。それは悲痛な叫びでした。しかし、エリシャだけに見えたこの出来事を通して、彼は、エリヤが確かに神の御心によって取り去られたこと、そして天に上げられたことを悟ったのです。
ですから、エリシャは別れの嘆きの中に留まってはいませんでした。彼の上にエリヤの外套が落ちてきたのです。あの出会いの時、エリヤが投げかけてくれたあの外套です。彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ちました。エリヤの外套を取って水を打って、彼は叫びました。もう彼は「エリヤはどこに行ったのですか」とは言いません。天に上げられたことが分かっているからです。エリヤの外套で水を打ってエリシャは叫びました。「エリヤの神、主はどこにおられますか」。
すると、あの時と同じように、水が左右に分かれました。それが答えでした。エリヤの神、主は――エリシャと共におられる。エリヤの霊はエリシャの上にとどまっている。エリヤを通して働かれた主は、エリシャを通しても働かれるのだ。そのことが示されたのです。彼は分かれた水の間を通って、再びヨルダンの西側、約束の地に渡るのです。彼は勇気をもってイスラエルの歴史の中に、エリヤの後継者として入っていくのです。神の言葉を伝えるために。
キリストの昇天を覚えて
さて、このエリヤとエリシャの物語がこの日曜日に読まれたのには理由があります。ペンテコステの一週間前の今日は、「キリストの昇天」を覚えて礼拝を捧げる主日だからです。弟子たちは、キリストが十字架にかかられたこと、そして三日目に復活したことだけでなく、復活したキリストが天に上げられたことを宣べ伝えました。ちょうどエリヤが天に上げられるのをエリシャが見たように、キリストが天に上げられるのを弟子たちは見た。そのことを語り伝えたのです。だから、私たちにまで伝えられているのです。
エリヤは目に見える姿では共にいなくなりました。しかし、エリシャはエリヤの霊を受け継いで、エリヤの働きを続けたのです。エリヤを通して働かれた主は、エリシャを通しても働かれたのです。同じように、キリストは目に見える姿でこの地上を歩まれることはありません。しかし、弟子たちは悲しみませんでした。私たちも悲しんではいません。キリストは天に上げられたことを知っているからです。そして、キリストの霊が私たちに宿ってくださり、神の愛を現し人間を救うキリストのお働きは、地上においてなお継続されていることを知っているからです。
ならば、私たちは真剣に、神の霊のお働き、聖霊の御業を求めるべきなのでしょう。人間の意志や人間の力によってなし得ることではなくて、聖霊の御業、神御自身がなし得ることを祈り求め、期待し、待ち望む。そのような私たちでありたいと思うのです。私たちはエリシャの位置にいるのです。私たちは天に上げられたキリストが地上において働きを続けるための体であり、一人一人はその部分なのです。私たちを通してキリストの御業が継続されることを求めてまいりましょう。
2024年5月12日日曜日
「天に上げられたキリストの霊を受け継いで」
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