2026年10月14日水曜日

祈祷会用:列王記上 1:1~53

 

列王記上 1:1~53

 今日から列王記に入ります。第1章は、内容的には、サムエル記下20章のシェバの乱に続きます。アブサロムのクーデターが失敗に終わり、内戦がダビデの軍の勝利をもって終結するや、すぐに戦後の利権争いが北の諸部族とユダ族との間に起こったことは既に見てきたとおりです。その対立と混乱に乗じて権力の座に就くことを夢見たのがシェバでした。そのシェバを支持したのは北の諸部族でした。彼らの不満が結集したところにおいてシェバの反乱が起こったのです。

 しかし、不満が結集した勢力というものは、所詮利害関係でしか動いていませんから、シェバと共にあることが自分たちの不利益となることが明らかになるや、たちまち求心力は失われます。不満と怒りによって担がれた人の最後は惨めです。シェバの反乱は最終的に人々に見捨てられたシェバの死をもって終結することとなりました。

 続く列王記の物語もまた王位を求めて反乱を試みた男の話で始まります。しかし、この反乱はシェバの場合と性格が異なります。この章に登場してくるのはハギトの子アドニヤですが、彼の行動にはある正当性があるのです。彼はアブサロムの次に生まれたダビデの子です。アブサロム亡き後、王位継承第一位にあったのは彼でした。「彼は父から『なぜこのようなことをしたのか』ととがめられたことが、一度もなかった」(6節)と書かれています。彼が王位継承を当然のごとく考えているところを見ると、ダビデが甘やかして育てたということよりも、むしろ実際、父からとがめられる必要のない、いわゆる模範的な王子であったのかもしれません。

 しかも、「彼の体格もまた堂々としており」と語られております。それは当時の王者にとって、極めて重要な要素でありました。そして、ダビデは非常に年老いていました。既に王としての公務は果たせません。王権の交替は差し迫った問題でした。適切に行われねばなりません。そこでアドニヤは「わたしが王になる」と言ったのです。

 ここで重要なことは、全軍の司令官ヨアブと祭司アビアタルがアドニヤを支持したということです。ここで明らかに王宮の周辺に分裂が起こっていることが分かります。もう一方には、祭司ツァドク、ヨヤダの子ベナヤ、預言者ナタン、ダビデの勇士たち、そしてソロモンがおります。そして、もう一方にはアドニヤと彼を支持するヨアブとアビアタルがいるのです。これはいかなる対立なのでしょうか。

 司令官ヨアブと祭司アビアタルは両者ともダビデが全イスラエルの王になる以前、ヘブロンにおいてユダを治めていた時代からの側近でした。一方、ツァドクやベナヤは違います。彼らはエルサレムに都が移された後の新興勢力です。

 特に、ヨアブがイスラエルの全軍の司令官であるのに対し、ベナヤは「クレタ人とペレティ人の監督官」(サムエル下20:23)でした。つまり、外国人傭兵部隊の司令官なのです。そのような外国人の積極的な登用をダビデは敢行したのですが、そのことはダビデと保守的な人々との間に亀裂を生じさせました。保守的な人々は新しい在り方についていけないし、さらには敵対さえするのです。

 そうしますと、ここで生じている対立は、一つには保守派と国際派の対立であると考えることができるでしょう。それは後者が勝利を得てソロモンが王位を継承した後に、王国が一気に国際化していくことからも分かります。そのような進歩的な国際派に対して、イスラエルの伝統を重んじるヨアブやアビアタルと保守派の人々は、王位継承権第一位にあるアドニヤを担ぎ出して自分たち実権を握ろうとしたのです。

 さらに言うならば、この対立にはより大きな要素が存在することが11節以下の展開によって分かります。そこで中心になって行動するのはナタンとバト・シェバなのです。このことは、当然のことながら、サムエル記に見たバト・シェバ事件を思い出させます。少なくともヨアブは事の成り行きを知っています。彼と共にある保守派の人々が、バト・シェバの息子のソロモンを王位継承候補とは考えなかったとしても不思議ではありません。

 しかし、ここで重要なことは、あのナタンがアドニヤを支持しなかったということです。預言者ナタンはダビデの罪を真っ向から非難したことを思い出してください。そのナタンが、ダビデとバト・シェバとの間に生まれたソロモンを支持して、彼に王位が継承されるように動いたのです。なぜでしょうか。

 それはある意味で純粋に神の言葉によるとしか言いようがないのです。ナタン自身がソロモンに関する神の言葉を聞いていたのです。それゆえにダビデに語っていたのです。

 そのことについては、サムエル記下12:24以下に次のように書かれております。「バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた」。

 「主に愛された者」とは何を意味するでしょう。それはとりもなおさず、サムエル記下7:12節において主がナタンを通して語られた「あなたの身から出る子孫」であることを意味するのです。つまり主が「その王国を揺るぎないものとする」と語られた、ダビデの跡継ぎのことなのです。

 さて、このように見てきましたナタンとバト・シェバを中心としたこの物語の展開は、それ自体が一つのメッセージを語っております。それは、王位が継承され、王国が存続するということは、いったいいかなることなのか、ということです。

 ヨアブやアビアタル、そしてアドニヤにとっては、王国は当然世襲によって存続するはずのものであり、王子の中において最も相応しい者によって王位が継承することは、至極当然のことだったのです。

 しかし、聖書は何と言っているでしょうか。「ハギトの子アドニヤは思い上がって」(5節)と書かれている。彼は思い上がっていた。そして、ヨアブやアビアタルは、その思い上がりに荷担したということになるのです。それはなぜでしょうか。

 それはナタンと対比すると分かるのです。ナタンにとっては、王国が継承され存続することは当然のことではないのです。王位が継承され、王国の王座がとこしえに据えられるとするならば、それは神の恵みなのです。それは神の約束に基づくのです。ですから、本来存在しないはずの子が王位を継承するということが起こるのです。その子が王位を継承するとするならば、まさに神の恵みによるとしか言いようがありません。そして、それはナタンによって語られた、ダビデに対する罪の赦しのゆえなのです。

 ダビデがバト・シェバに誓った言葉、「あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしの王座につく」という言葉は、既にナタンの口から語られています。このことから、ソロモンについてのナタンの預言と、ダビデの誓いが結びついていることが分かります。ただ神の恵みによって、神の約束として、ソロモンは王位を継承するのです。それは神の恵みによって定められたことなのです。それゆえに、このことは実現されねばなりません。ナタンとバト・シェバの行動は、その実現に向けての行動として理解することができるでしょう。

 さて、このソロモンへの王位継承は、捕囚時代のイスラエルの民にとって、大きな意味を持っていたに違いありません。王位継承が当然の権利ではなく、王国の存続も当然の事柄ではないことは、やがて王国が滅亡し、王位が失われる時に明らかになります。しかし、ソロモンへの王位継承が示しているように、これは神の恵みによるのであって、神の恵みが存続する限り、約束もまた存続するのです。そこに希望もまたあるのです。

 これは、私たちが存続を当然のこととして考えている教会についても当てはまります。私たちは教会が存続していくことが当然のことであるかのように考えていますし、また存続させようと努力もいたします。しかし、実はそれは当然のことではなく、もし神が教会の罪をそのまま裁かれるならば、教会はいつ断ち切られても不思議ではないのです。

 ならば教会が存続するとすれば、それは神の恵みによるのであり、また約束によるのです。そして、神の恵みによるのならば、教会がたとえいかなる状況を経たとしても常に希望があるのです。なぜなら、神の恵みは変わらないからです。

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