2026年10月25日日曜日

「賜物を用いて仕え合う」

2026年10月25日 主日礼拝説教 

聖書:コリントの信徒への手紙 12:12‐27

 10月の第4主日を迎えました。今月も、この第4主日においては、特に年度主題を覚えて礼拝をおささげしたいと思います。「聖霊の神殿である私たち」。これが年度主題です。私たちは4月から、特に、神の霊、聖霊のお働きに思いを向けてまいりました。そして、9月と10月は「聖霊の賜物」――「神さまが与えてくださる賜物」に思いを向けたいと思っております。

 先月お読みした箇所にこんな言葉がありました。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」(4節)。「賜物」――聖書の原語では「カリスマ」と言います。今日では「カリスマ的な指導者」などという表現で用いられますが、もともとは「恵み(カリス)」という言葉に由来します。神の恵みによって与えられているものです。

 そのように神の恵みによって与えられている賜物は「いろいろある」と聖書は言います。私たちは往々にして「あるかないか」を問題にします。他の人と自分を比較して、「他の人に与えられているものが私にはない」と言って卑下したり、「他の人に与えられていないものが私にはある」と言って高ぶったり。しかし、聖書は「あるかないか」を問題にしません。「いろいろある」と言うのです。

 他の人に与えられているものが自分にないとするならば、自分には別なものが与えられているのです。「いろいろある」のですから。そうです。与えられているものが異なるだけの話なのです。それはそれぞれ務めが異なるからであり、働きが異なるためなのです。そして、働きが異なるのは、互いに協力し、補い合うためなのだ、ということを先月申しました。

教会はキリストの体

 そこで、今日特に心に留めたいのは27節の言葉です。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。教会生活をしていますと、何度も何度も耳にする言葉です。しかし、何度も聞いてはいるのですが、はたして私たちはキリストの体の部分であることを意識して生活しているのでしょうか。

 間違ってはいけないのですが、パウロは教会を、「たとえて言うならばキリストの体のようなものだ」と言っているのではないのです。事実、「キリストの体である」と言っているのです。それは恐らく彼の回心の体験に基づいているのです。

 パウロはもともと教会の迫害者でした。その彼がキリスト者となった次第は使徒言行録9章に記されています。迫害の手を伸ばすためにダマスコへと向う途中、彼は天からの光に照らされ、地に打ち倒され、そこで天からの声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。

 パウロが迫害していたのは教会でした。捕らえて投獄していたのは個々のキリスト者でした。しかし、キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。私たちの手足の指を考えてみてください。指先が痛めばわたしが痛みます。この指の一本を誰かが切り取ろうとするならば、「わたし」が必死で抵抗するでしょう。一本の指先であっても、それは「わたし自身」なのです。

 教会がキリストの体であり、私たちはその部分であるとはそういうことです。その指が迫害されるならば、「なぜ、わたしを迫害するのか」と主は言われるのです。そのように各部分がキリストと分かちがたく結ばれている。そのようにキリストが私たちを自分自身として見ていてくださるのです。このようなキリストと各部分との関係を念頭に置いてこそ、また各部分お互いの関係を考えることができるのです。そして、「いろいろある」賜物の内、お互いが異なる賜物を与えられていることの意味をも理解することができるのです。

わたしは要らない
 そのような「キリストの体」を念頭に置いて、パウロは次のように語っています。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15‐16節)。

 他の人ができることが私にはできない。だから私なんて要らないんだ。必要のない存在なんだ。――人と人との比較で動いているこの世の社会においては、しばしばそのような思いを抱かざるを得ない時があるのでしょう。そのように思い悩み、苦しむことはいくらでもあるだろうと思うのです。しかし、問題は、そのようなこの世の考えが、教会の中にまで入り込んでくることなのです。実際、コリントの教会にはそのようなことが起こっていたようです。だからこのようなことが書かれているのです。

 先月お読みした箇所には、聖霊の賜物のリストが書かれていました。「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(8-10節)。ここに挙げられているのは、いわば超自然的な能力です。実際、当時のコリントの教会には、このような著しい能力によって、著しい働きがなされていたのでしょう。

 そこで容易に想像できるのは、もう一方において「わたしは手ではないから、体の一部ではない」とつぶやく「足」の存在です。私にはあの人たちと同じことはできない。私なんている意味がないんだ。私なんて要らないんだ。そのような思いが教会の中にまで入り込み、一人一人の心の中にまで入り込む。そんなことが起こります。しかし、そこでパウロは言うのです。「あなたがそう言ったところで、体の一部でなくなるわけではないでしょう」と。

 そうです。私たちがどう思うかが先にあるのではなく、キリストの体の部分とされているという事実が先にあるのです。私たちはただ恵みにより信仰によって救われたのです。私たちは恵みによって神に受け入れられたのです。恵みによってキリストに結ばれたのです。神の恵みによってキリストの体の部分とされたのです。「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)と書かれている通りです。私たちがキリストの体の部分に《なった》のではないのです。私たちがどう思おうが、どう感じようが、神が望まれたゆえに、私たちは神によってキリストの体の一部として「置かれた」のです。

 ならば、私たちが自覚しようがしまいが、私たちには体の一部としての機能があるのです。役割があるのです。賜物は「いろいろある」のです。他の人に与えられているものが自分に与えられていなければ、他のものが自分に与えられているのです。ならば重要なことは何か。他の人ができること、そして行っていることを、単純に自分に要求しないことです。そうではなくて、既にキリストの体とされているのですから、体において自分に与えられている役割を見出していくことなのです。

お前は要らない
 さらにパウロは言います。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)

 これは先に述べてきたことと表裏一体です。「わたしは要らない」という声があるところには、「あなたは要らない」という声もまたあるからです。必ずしも別な人の言葉ではありません。「わたしは要らない」と言う人は、立場が変われば「あなたは要らない」と言い出すのです。

 それは大事なことが分かっていないからです。繰り返しますが、私たちが「キリストの体」とされているという事実が先にあるのです。ならば、要るか要らないかは私たちが決めることではないのです。先に見たように、神は「ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」のです。強い部分であろうが、弱い部分であろうが、神が望みのままに置かれたのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)とさえ聖書は言っているのです。

 賜物が「いろいろある」のならば、弱さもまた「いろいろある」のでしょう。ある意味では、誰もが欠けた部分を持っている。その意味では誰でも「ほかより弱く見える部分」であり得るとさえ言えるでしょう。そのような弱い部分はないに越したことはないと私たちは通常考えているのでしょう。しかし、聖書は言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

 いやそれだけではありません。24節にはこう書かれています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」要するに、人間の目には「見劣りのする部分」としか見えないかもしれないのだけれど、実はそこに神様が特別になさっていることがあるのだ、と言っているのです。神様が特別に目をかけ「引き立たせて」おられる。神様が特別に与えている尊いものがあるのです。ならば、そこにこそお互い目を向けるべきなのでしょう。

 そのように、神様は教会の中に「ほかよりも弱く見える部分」を残され、その部分に神様御自身が特別な尊いものを与えられます。それは何のためでしょうか。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と書かれています。

 弱く見える部分を神が引き立たせておられることに目を向ける時、そこに神の与えている尊いものがあることに目を向ける時、各部分が互いに配慮し合うために、互いに補い合うために神が与えてくださっている賜物の意味も見えてくるのです。大事なことは、自分ができること、そして行っていることを、単純に他者に要求しないことです。そうではなくて、互いにキリストの体とされているのですから、体において自分に与えられている役割を見出していくことなのです。

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