2026年10月21日水曜日

祈祷会用:列王記上 2:1~25

 列王記上 2:1~25

 2章のはじめにはソロモンに対するダビデの遺言が記されております。既に、私たちはサムエル記下23章において、ダビデの辞世の歌を読みました。これは別の伝承です。ここでソロモンに対して語られたダビデの最後の言葉を読んで気づきますのは、これがかつてヨシュアに語られた言葉と良く似ているということです。

 イスラエルが約束の地に入ろうとしていた時に、モーセはヨシュア対してこう言いました。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:7-8)。また主御自身がヨシュアにこう語られます。「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」(ヨシュア記1:6‐7)。そして、今ダビデはソロモンにこう語るのです。「あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる」(2‐3節)。

 このように、ダビデが世を去るに当たって、今や王位がソロモンに受け渡されようとしている場面は、ちょうどモーセの務めがヨシュアに手渡されるあの時と重なって見えるように書かれているのです。そこには重大な共通点があるからです。

 あの時とこの時と共通しているのは何か。それは「どちらも神の恵みの約束に基づいている」ということです。カナンの地が与えられることは、神の恵みによる約束でした。それと同じように、王国が揺るぎないものとされ、王座が堅く据えられることもまた、神の約束でした。既にサムエル記下7章におけるナタンの預言において読んだとおりです。

 4節でダビデはこう言っています。「また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう」(4節)。これはあのナタンの預言の要約なのです。

 かつてイスラエルが約束の地に入る時に、何が求められていたかを思い出してください。それは約束を信じる信仰であり、また約束して下さった方への忠誠だったのです。信じ、従うことです。ここでも求められていることも全く同じなのです。ソロモンに求められているのは、約束を信じる信仰であり、約束して下さった方への忠誠です。それをダビデはここで語っているのです。要するに、ダビデは単にソロモンに王位を受け継がせようとしているのではなく、王位を与えてくださる神の約束を受け継がせようとしているのです。ダビデが死の床においてソロモンに何としてでも渡さねばならなかったのは王国そのものではなく信仰だったのです。

 続いて5節以下に、三人の人物に対する具体的な指示が語られています。驚いたことに、まず指示されていますのは軍の司令官であるヨアブの処刑です。そして、この指示は2章において実行に移されます。また、その前にアドニヤが処刑されたという記事が12節以下に書かれております。さらに言いますならば、処刑は免れたのですが、アビアタルが祭司職から退けられ、エルサレムから追放されることとなります(2:27)。これらの行動は、客観的に見ればソロモンによる政敵の粛清です。実際、ソロモンの時代に、彼の行動をそのように理解した者は多かったに違いありません。また、今日の聖書学者もそのように理解する者は少なくありません。

 しかし、もしこれが単なる粛清であったなら、何も聖書が取り立てて伝えるほどのことではありません。というのも、古代の専制君主国家においては、前王朝の者や、現王位を脅かす者が粛清されることは決して珍しいことではなかったからです。それは今日の全体主義国家を見れば分かります。今日でも起こり得ることです。ですから、聖書がわざわざこれらの出来事を伝えているとするならば、それは全く異なった観点から出来事を見ているからなのです。その視点を読みとらなければ、聖書を読んだことにならないのです。

 そこで重要なのは、ダビデが処刑を指示している5節以下の言葉です。いったいなぜダビデはヨアブの処刑を命じているのでしょうか。ヨアブに個人的な恨みがないわけではありません。アブサロムを殺害したのはヨアブだったのですから。しかし、ここでダビデはアブサロムには言及していないのです。そうではなく、アブネルとアマサを殺害した罪を問うているのです。それは「平和なときに戦いの血を流し」と表現されています。

 ヨアブもダビデも軍人です。戦争において多くの人を殺してきました。しかし、ヨアブが彼らを殺害したのは戦いにおいてではありません。「平和なときに」ということは、少なくともそれが主の正義の執行ではなかったことを意味します。それは主の目には明らかに悪とされることなのです。ところが、ヨアブはその罪を問われることはありませんでした。どうしてか。力を持っていたからです。力を持つゆえに、彼は罪を咎められなかったし、彼は罪を認める必要もありませんでした。しかし、今日の箇所ははっきりと示しているのです。罪を認めない者が罪を問われる時が来る。ヨアブの処刑はそのようなものであったと聖書は伝えているのです。

 シムイについても同じことが言えます。彼はダビデを迎えた時に「わたしは自分の犯した罪をよく存じています」(サムエル記下19:21)と言いました。彼は自分の罪を認めました。にもかかわらず、彼は赦され、無罪放免となりました。しかし、詳しくは次回お読みしますが、後に見るシムイの行動は、彼がこの恩赦をいかに軽く考えていたかを示します。裁きを免れたことを軽く考える者は、最終的に裁きに直面することになります。シムイの処刑はそのような出来事であったことを聖書は伝えているのです。

 12節以下には、ハギトの子アドニヤが処刑された次第が記されております。アドニヤがダビデの側女であるアビシャグを妻に求めました。これをバト・シェバは小さなことと考えましたが、ソロモンはそこに王位をうかがうアドニヤの野心を見たのでした。22節に記されているとおりです。それは今日の私たちの目には一方的なソロモンの言いがかりのように思えないことはありません。

 しかし、本当に重要なことは、アビシャグを求めたことが野心の現れであるか否かではありません。もっと深い問題があるのです。それは、そもそも王位は誰が与えるのか、ということに関わっています。アドニヤは言うのです。「ご存じのとおり、王位はわたしのものであり、すべてのイスラエル人はわたしが王となるように期待していました」。しかし、王位はソロモンが得ました。それをアドニヤは主のお計らいであったと語っています。彼が自ら語っているとおり、彼は単に王位継承争いに敗れた可哀想な人ではないのです。王位は神が与えるのであり、神がソロモンを油注がれた者とした。ならば、アドニヤが王位を主張したことは、神の油注がれた者に対する反逆であり、神に対する反逆なのです。

 それが必然的に滅びを招くことはアブサロムの時に見てきました。しかし、アドニヤは祭壇の角をつかんで死を免れたのです(1:51)。いわば神が彼を赦し、彼を滅びから救ったのでした。しかし、それはアドニヤにとって実に軽いことでしかなかったのです。それがアビシャグを求めた彼の行動と彼の言葉に現れております。本来滅びるはずの者が生かされた。その事の大きさを弁えなかったアドニヤは、そのことによって自ら滅びを招き寄せてしまったのです。

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