サムエル記下 11:1-26
10章でヨアブが率いた軍はアンモン人に対して大勝利を得ました。しかし、既に雨季に入っていたため、ヨアブはアンモン人をそのままにして引き揚げ、エルサレムに帰りました。最終的にアンモン人の都ラバを陥落させるのは12章26節です。
年が改まり、雨季も終わって、再びダビデはラバを包囲するためにイスラエルの全軍を送り出します。しかし、ダビデはエルサレムに留まっておりました。既に、国の体制は整い、もはやダビデ自ら戦闘に出なくても良かったのです。
ラバから百キロ近く離れているエルサレムは、実に平和でした。ダビデがこれまで歩んできました波乱に満ちた日々の末に、ようやく彼の人生に訪れた平和であったとも言えるでしょう。しかし、それはダビデが自らの力によって勝ち取った平和ではありません。それは7章に見たナタンの預言の成就に他なりませんでした。「わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す」(7:11)。すなわち神の一方的な恵みと約束によって実現した平和なのです。
しかし、恵みを与えられる者は、まさにその恵みを神の恵みとして受け止めるか否かが問われるのです。それは自分から出たものではなく、神からのもの。その認識を欠くならばどうなるか。神の恵みに与り、幸いを得た時にこそ、また罪への誘惑もまた大きくなるのです。
ダビデが後々にまだ語り伝えられることになる大きな罪を犯したのは、まさに彼が最も大きな幸いを味わい、平穏な生活の中にあった時でした。すなわち、その平和の中で、ダビデは姦淫の罪に殺人の罪を重ねることとなるのです。しかし、この物語は単にダビデが「罪に陥った」ことだけを伝えているのではありません。実はもっと恐るべきことがあるのです。私たちはこの物語において特に4つの点に注目して読んでまいりましょう。
第一に注目すべきは3節の言葉です。「ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった」(3節)。ダビデはその日の夕暮れ、午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していました。するとその屋上から、一人の女が水を浴びているのが目に留まりました。「女は大層美しかった」と書かれています。ダビデはその女に心惹かれました。そこでダビデは人をやって女のことを尋ねさせます。使いが帰って報告します。それは「ヘト人ウリヤの妻だ」という報告でした。明らかなことは、この報告はダビデに十戒の第七戒を突きつけるものだったということです。「あなたは姦淫してはならない」と。
第七戒が禁じる「姦淫」は単に性道徳の問題ではありません。これは結婚・家庭の事柄が、神の関わる極めて神聖な事柄であることを意味しているのです。他者の結婚関係は神の領域なのだということです。だから、たとえ王といえども、そこに入り込んではならないのです。使いの者の報告を通して、ダビデはここではっきりと神の「ノー」を聞いたはずです。しかし、何と書かれていますか。「ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした」(4節)。すなわち、ダビデはあえて神の「ノー」を退けたということです。
第二に注目すべきは5節です。「(バト・シェバは)子を宿したので、ダビデに使いを送り、『子を宿しました』と知らせた」(5節)。子どもが与えられるということが全く神の業であることは、聖書における共通認識です。神はバト・シェバが子を宿すことを良しとされたのです。すなわち、彼らの行為の結果を与えられたのです。
ダビデとバト・シェバの行為は闇の内にあったことでした。それは人の目からは覆い隠されていました。しかし、神はしばしば罪の結果をもって、隠された罪を明るみへと引き出されるのです。それは言うまでもなく、ダビデが罪を認め悔い改めるためです。
ダビデの罪は明らかになりました。ダビデは再び自らの罪を神によって突きつけられることになりました。しかし、ダビデが考えたことは、その罪を神の御前に認めることではなくて、罪の結果をさらになんとか覆い隠すことでした。
ダビデはウリヤを戦地から呼び戻しました。そして、家に帰らせようとするのです。ウリヤが家に帰ってバト・シェバと床を共にすれば、若干日数の計算が合わないにせよ、少なくとも胎の子はウリヤの子としてこの件を始末することができる。ダビデはそう考えたのでした。しかし、ウリヤは家に帰りませんでした。
第三に注目すべきは11節です。ウリヤはダビデに答えました。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか」(11節)。
彼は「ヘト人ウリヤ」(3節)と紹介されていました。彼はもともとイスラエル人ではなくて、ヒッタイト系の異邦人(寄留者)です。しかし、ウリヤという名前自体は「主は私の光」という意味です。明らかに彼自身はイスラエルの信仰的な伝統のもとで育てられた人です。その彼が信仰によって答えたその言葉は、図らずもダビデの罪を明らかにする言葉となりました。
「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか」――いや、イスラエルとユダが野営している時に、自分だけ飲み食いをし、他人の妻と床を共にしていたのは、他ならぬダビデなのです。
この返答は人の目には偶然と見えます。しかし、その答えを通して神は語りかけておられたのです。すなわち、ダビデはそこでもう一度、自らの罪を突きつけられることになったのです。しかし、ダビデは自分の罪を罪として認めるのではなくて、あくまでも罪の結果を覆い隠すことを考えたのです。ダビデはウリヤを酔わせて家に帰らせようとしたのでした。しかし、ウリヤは主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかったのです。
第四に注目すべきは14節です。「翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した」(14節)。ダビデはついにウリヤを亡き者とすることを決心します。彼は書状をよりによって当のウリヤに託しました。忠実なウリヤは決して中を盗み見ることはないと分かっていたからです。
書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれておりました。これは実に稚拙な指令です。現場の軍の司令官が、ウリヤだけを残して他の部下に退却を命令することなど、できるはずがありません。誰がどう見ても不合理だからです。
ヨアブは恐らく戸惑いつつも、行える範囲でダビデの意図を汲んで従おうとするのです。要するにウリヤを戦士させることが目的であることは明らかだからです。そこで、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置することにしました。
しかし、それは町に接近することでもあり危険が伴います。事実、「ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た」と書かれており、そのことが以後の記述において強調されています。戦死者の中には王に極めて近い人々がいたことは、ヨアブの苦しい報告からも伺えます。彼は、「王の僕ヘト人ウリヤも死にました」と言うがよい、と命じて使者を送るしかありませんでした。
王の家臣の中には、ダビデの苦しい日々を共に過ごしてきた人々もいたことでしょう。ダビデが罪を罪として認めることなく、その結果を覆い隠そうとしたことは、さらなる結果を生みました。罪の結果は他の多くの人々まで巻き込むこととなったのです。ダビデを愛し信頼する人々にまで及び、彼らに死をもたらすことになったのです。ダビデはそこでもう一度、自らの罪を突きつけられることになります。しかし、ダビデはあくまでも罪を認めませんでした。
この章の結末はこうなります。ダビデは使者に言いました。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない』」。この伝言は、直訳すると、「あなたの目に悪とするな」となります。これはヨアブに語っていますが、しかし、これこそまさにダビデが行ってきたことなのです。自分の行為を自分の目に悪としない。なんとしても、悪とは見なすまいとしてきたのです。
しかし、聖書は次のように語ります。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と。これも直訳すると、「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」となります。ダビデがどう見なそうと、それは主の目に悪なのです。そして、人の目からは消えても、罪は罪として残るのです。
罪の問題の解決は、罪の悔い改めと罪の赦しにしかありません。罪の悔い改めは、主の目に悪とされることを、自らの目にも悪と見なすところから始まります。そこにしか、罪の赦しと真の救いはないのです。