2026年5月20日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 12:1~31

 サムエル記下 12:1-31

 前章において、私たちはダビデが家臣であるウリヤの妻バト・シェバと関係し、しかも彼女が身ごもると自らの罪を覆い隠すために、最終的にウリヤが戦死するように仕組んで亡き者としてしまうという恐ろしい罪を重ねたという話を読んでまいりました。

 ウリヤがダビデの思惑通りに戦死したことが伝えられた時、ダビデは使いの者に言いました。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない』」。ヨアブに語っていますが、これこそまさにダビデが行ってきたことなのでしょう。自分の行為を自分の目に悪としない。なんとしても、悪とは見なすまいとしてきた。しかし、その章の最後はこう締めくくられています。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と。直訳すると、「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」という言葉であることを前回申し上げました。

 罪は人がそう見なさなくても神の前に罪として残るのです。罪が罪として認められないままに残っているならば、そこに救いはありません。救いに至るためには、人が罪を罪として認めなくてはならないのです。それゆえに主は預言者を遣わして御言葉を語られるのです。それが今日お読みした話です。

 主はナタンを遣わして、一つの物語を語らせました。1節から4節に次のように書かれています。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った」(1‐4節)。

 ダビデはその話を聞いて激怒し、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と叫びます。王は司法の権威をも有しています。正しく裁くことは王の務めでありました。この物語に出てくる豊かな男は、ダビデの裁きによれば死刑に当たると判断されたのです。さらにダビデは言いました。「小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」。

 するとすかさずナタンは、「その男はあなただ」とダビデに言い放ちます。他者の犯す罪については明らかに判断できても自らの罪は分からないものです。あるいは分かっても認めようとはしない。人間の義の基準はいくらでも変わります。他者が羊を殺したら死刑と判断され、自分が人を殺してもそのようには見なさない。そのようなことが往々にして起こります。大切なことは、人の目にどう映るかではなく、神の目にどのように映るかです。ダビデは自分の発した言葉によって、神の御前に自分の行動が罪であることを突きつけられたのでした。

 しかし、ダビデの罪は、単に無慈悲なことをしたことではありません。そのことをさらにダビデは知らされる必要がありました。ナタンは主の言葉を告げて言います。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」(9節)。前章に見たとおり、問題はただ人と人との間の事柄ではありません。人に対して酷いことをしたことが責められているのではありません。もっと深いところにおいて、神の言葉と神の働きかけを頑なに拒否し続けたことこそが問題だったのです。罪の根はまさにそこにあったのであって、姦淫と殺人という具体的な行動はその実に他ならなかったのです。

 神の言葉を侮り、罪を罪として認めないところに救いはありません。ダビデはついに神の言葉を受け入れ、自分の罪が主に対する罪であることを認めます。彼はナタンに言いました。「わたしは主に罪を犯した」と。すると即座にナタンは答えます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。

 この「罪を取り除かれる」というのは、いつか未来においてという意味ではありません。今、ここで即座にという意味です。彼に与えられたのは罪の赦しの宣言です。人が罪と見なさなくなることによっても、人が忘れることによっても、罪は除かれません。罪がそのままならば永遠に神の前に残ります。罪は主が赦されることによって初めて取り除かれるのです。なぜなら、罪は主に対するものだからです。ですから「その主が」罪を取り除かれるのです。

 しかし、ナタンはさらにこう続けます。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」。これは不可解なことです。ダビデが罪を犯したのに生まれてくる子供が死ぬというのは実に不条理極まりないことでしょう。子供は悪くないのですから。しかし、このようなことがあえて書き記されていることには意味があるのです。少なくともこの主の言葉と続く物語は私たちに二つの大切なことを教えているのです。

 第一に、この箇所は私たちが罪を軽く考えてしまう過ちから私たちを守ります。確かに全く無条件に、即座に「その主があなたの罪を取り除かれる」と宣言されたことは、驚くべき神の恵み以外の何ものでもありませんでした。しかし、その恵みの中で私たちは続く言葉を厳粛に受け止めなくてはならないのです。主による罪の赦しは完全です。その罪責は完全に取り除かれます。借金は帳消しにされました。しかし、罪が残した傷跡は残ります。それは罪の行為者のみならずしばしば他者にまで及びます。

 ナタンは言いました。「主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う』」(11-12節)。実際、この子供に関することだけでなく、ここに語られていることもことごとく成就するのです。このことを認識するならば、私たちが罪の赦しを安価な恵みとして受け取ることはないでしょう。

 しかし、第二に、この主の言葉は続く物語と合わせて、さらに大きなことを私たちに示しているのです。それは何か。救いの確かさです。

 主の言葉どおり、主はダビデの子を打たれ、その子は弱っていきます。ダビデは苦しみます。彼はその子のために神に願い求め、断食し、引きこもり、地面に横たわって夜を過ごします。こうして七日間が過ぎました。そして、ついにその子は死んでしまいます。家臣たちはダビデが自害するのではないかと恐れました。しかし、子供が死んだことを告げられると、驚いたことにダビデは身を洗って香油を塗り、衣を替え、食事をするのです。

 通例ならば、子が亡くなってこそ嘆き悲しんで断食し喪に服するはずです。しかし、ダビデはそうしませんでした。家臣は不思議に思います。するとダビデは答えました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう」(22-23節)。

 一見すると投げやりなダビデの言葉に見えます。しかし、そうではありません。ダビデは、子供が死ぬことを告げた主の言葉に、あえて抵抗したのです。憐れみを願ったのです。しかし、願いは適いませんでした。そして、願いが退けられることにおいて、逆に、主の言葉の確かさに直面させられることになるのです。かつて主の言葉を侮ったダビデでした。しかし、今この出来事において、ダビデは主の言葉の絶対的な力に直面せられることとなったのです。そして彼は、恐れをもって、主の言葉の権威のもとに身を低くしたのです。それゆえ、通常の喪の慣習に従うのではなく、身を洗って主を礼拝したのです。

 子供の死を予告した神の言葉は、自ら権威をもってその確かさを証明したのでした。しかし、これはダビデにとって大きな意味を持ちました。なぜなら、その事実はまた、先に語られた神の赦しの言葉も、絶対的な権威を持っていることを意味するからです。ダビデは自らの痛みをもって、その事実を思い知ることとなったのです。

 それゆえ、彼は主を礼拝した後、ダビデは赦された者として新たに生き始めます。そして、バト・シェバとの間に一人の子供が与えられたのでした。その子こそ、ダビデの後を継ぐソロモンです。「主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示された」と聖書は告げます。そこにあるのは神の一方的な恵みです。そして、その行き着く先に、イエス・キリストの到来があるのです。

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