ヨハネによる福音書 18:1‐14
本日の福音書朗読でお読みしましたのは、イエス様が逮捕される場面です。この場面については、四つの福音書がそれぞれ伝えていますが、私たちは今日、ヨハネによる福音書だけが語っているいくつかの点に注目したいと思います。
サタンとの戦い
その第一は、ユダが「一隊の兵士」を引き連れて来たということです。これは日本語で読む私たちにはピンと来ませんが、実はとてつもないことが語られているのです。というのも、「一隊の兵士」という表現は、文字通りには600人のローマ兵から成る一部隊を意味するからです。そのようにヨハネは、かくも多くの兵士たちがたった一人の男を逮捕するためにやってきたのだということを、いささか極端に思えるほどに強調しているのです。なぜでしょうか。――イエス様はそれほどまでに巨大な勢力と戦っていたのだということを表現しているのです。
そこで重要なのはイエス様が戦っていた巨大な勢力とは何かということです。表面的に見るならば、イエス様と直接対立していたのは、祭司長たちや律法学者たちに代表されるユダヤの宗教界であると言えます。直接的には祭司長らがイエスを亡き者とする計画を立てて実行に移していくのです。「イエスの居どころが分かれば届け出よ」と命令を出し、イエスを指名手配したのも彼らですし、イエス逮捕のために弟子の一人を買収したのも彼らです。あるいは、そこにローマの国家権力が加わったと言うこともできます。この場面に見るように、既にローマの兵士たちが動き始めています。後には、ローマ皇帝によって立てられた総督ピラトが登場してきます。その審判のもとに十字架刑が執行されます。その意味からすれば、イエス様に敵対していたのは国家権力であるとも言えるでしょう。
しかし、福音書は繰り返し、宗教的権力でもない国家権力でもない、イエス様が戦っていた《本当の敵》について言及しているのです。その敵は「サタン」と呼ばれています。あるいは「悪魔」とも呼ばれます。その意味で、ユダが先頭に立って大勢の兵士たちを引き連れて来たというのは、実は極めて象徴的な出来事だったのです。なぜなら、この福音書は既に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13:2)と語り、最後の晩餐において、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(13:27)と語っているからです。また、本当の敵は「この世の支配者」と繰り返し呼ばれています。それはローマ皇帝のことではありません。サタンのことです。そのように、ユダに率いられた一隊の兵士たちは、サタンとその軍勢、人間を滅ぼそうとしている悪魔の巨大な勢力を象徴していたのです。イエス様はその本当の敵に立ち向かっていたのです。
宗教的権力であれ、国家権力であれ、人間が相手であるならば、武力をもって戦うことができます。イエス様は実際、武装勢力を組織することぐらい、いくらでも出来たと思います。何千人という群衆がイエスの後について来ていたのですから。しかし、イエス様はそのような道を進みませんでした。本当の敵が誰であるかを知っていたからです。人間を神から引き離し、罪の中に縛り付け、また互いに噛み合い食い合うようにさせ、滅ぼそうとしている本当の敵はサタンであることを知っていたのです。今日お読みした場面において、イエス様はそのような巨大な勢力と向き合っているのです。
エゴー・エイミ
第二の点に目を向けましょう。イエス様が「わたしである」と言われた時、捕らえに来た人々は後ずさりして、地に倒れました。これもまた、ヨハネによる福音書だけが伝えている出来事です。なぜこのようなことが書かれているのでしょう。イエス様にそれだけ威圧感があって、彼らが圧倒されたというだけならば、イエス様がもう一度「だれを捜しているのか」と尋ねた話は不要です。一回聞いても分かりますように、たいへんくどい話になっています。「わたしである」という言葉が繰り返されています。原文では「エゴー・エイミ」と言いまして、この福音書を通じで何度も出て来る、いわばこの福音書を理解するためのキーフレーズなのです。
この「わたしである」とか「わたしだ」と訳されている「エゴー・エイミ」は、また、「わたしはある」と訳すこともできます。「わたしはある」というのは変な日本語ですが、その変な日本語のままで「わたしはある」と訳されている箇所もあります。(八章などに出てきますので、見つけてみてください。)実は、それには理由があるのです。「わたしはある」という変な表現は、旧約聖書のとても大事な場面に出て来るからです。神様がモーセに現れた場面です。そこで神様が御自分の名を「わたしはある」と呼ばれたのです。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」(出エジプト3:14)。
そのように「わたしはある」というのは、聖書が伝えている神の名前なのです。そして、当然のことながら、神が「わたしはある」と言われるならば、単に神が存在するということではなくて、私たちと共におられるという意味なのです。「わたしはある」という表現は、まさに共にいてくださる神を意味する表現なのです。
その表現をイエス様は繰り返し用いておられたのです。つまりイエス様が「わたしはある(エゴー・エイミ)」と言われたとき、それはすなわち「わたしは聖書が伝えている神である」ということであり、それは「わたしこそ共にいる神である」という宣言に等しいのです。
今日お読みしている場面においても、イエス様は弟子たちの前で「わたしはある」と宣言するのです。すると夥しい兵士たちとユダが地に打ち倒された。それは悪魔の軍勢に対するキリストの勝利を指し示す象徴的な出来事として記されているのです。それは、その後に起こることの本質を示しているのです。
表面的に見るならば、キリストは敗北していくように見えるのです。結局、イエスは捕らえられ、不当な裁判によって死刑判決が下され、鞭で打たれてボロボロにされ、惨めにも十字架にかけられて殺されていくことになるのですから。宗教的な権力にも負け、国家権力にも負け、そして、さらに言えばサタンにも負けたと見えなくもない。しかし、そうではないのです。打ち倒されるのはサタンの方だったのです。キリストは武器によらずしてサタンに打ち勝ったのです。何によってですか。愛の御業によってです。御自身を罪の贖いの犠牲として捧げ尽くすことによってです。
十字架において罪の贖いは成し遂げられることとなりました。十字架から、人間の罪を赦し、人間を罪から解放する神の愛が溢れ流れることとなりました。十字架から、永遠の命を与える神の救いが溢れ流れることとなりました。サタンはその救いの御業を止めることはできませんでした。結局、サタンはイエスに勝つことはできなかったのです。なぜなら、あの御方は「わたしはある。エゴー・エイミ」と宣言する神なる御方だからです。
キリストによって守られて
そして第三に、ヨハネによる福音書が伝えているのは、そのイエス様によって弟子たちが守られた、ということです。
主は言われました。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」いわば、イエス様お一人が矢面に立ち、闇の力に立ちはだかって、共にある弟子たちを守ってくださったのです。それはただ弟子たちが兵士たちに殺されずに済んだ、というだけの話ではありません。既に見てきましたように、ここに伝えられているのは極めて象徴的な出来事なのです。ですから、9節にもこう説明されているのです。「それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(9節)と。
「失われない」とは「滅びない」ということです。ただその時災いから守られたという小さな話ではなくて、永遠の救いから洩れないということです。イエス様の御手から失われないということは、極端に言えば、ここで兵士たちの剣を免れた彼らが、仮に後で別な形で殺されるようなことがあったとしても、それでもなお彼らは「失われない」ということなのです。
この場面において力ある御方として立っているのはイエス様だけです。他の弟子たちは皆、無力です。宗教的な権力や国家権力に対して無力であるだけでなく、サタンに対して無力なのです。もちろん、ちょっとばかりの勇気を振るうことはできます。ペトロは剣で斬りつけて抵抗しました。たいしたものです。しかしペトロは、剣は握れてもサタンに勝てはしないのです。なんとこの場面の直後には、ペトロが三度もイエスを否認したという話が出てくるのです。彼は簡単に転がされてしまいます。他の弟子たちもそうです。いざとなったらどんなに自分を愛してくれた御方であれ、見捨てるし、見殺しにだってする。人間は悪魔に対して全く無力です。
しかしイエス様は、そのような弱い弟子たちを、いわば体を張って守られたのです。それは、単にあの逮捕の場面だけではないのです。あそこで起こった事は、後に起こることを指し示しているのです。イエス様は、御自身に従う者を永遠に守ってくださる。そのことを示しているのです。
イエス様は私たちを愛して罪の贖いを成し遂げるという仕方で、悪魔に打ち勝ってくださった。そのイエス様が共におられるならば、私たちはもはや決して失われた者として滅びることはありません。もちろん、この地上に生きる限り、悪魔の力には晒されることでしょう。私たちを神から引き離し、罪の中に縛り付け、互いに噛み合い食い合うようにさせ、滅ぼそうとしている本当の敵は、これからも猛威を振るい、様々な形において私たちに襲いかかってくるでしょう。
しかし、その悪魔の力に対して、罪を贖ってくださったイエス様御自身が立ちはだかってくださるのです。そして、「エゴー・エイミ」と宣言してくださる。私たちと共にいる神であることを宣言し、私たちを永遠の命の内に守ってくださるのです。だから恐れることはない。だから私たち自身も悪魔に立ち向かうことができるのです。サタンに打ち勝たれたキリストこそ、私たちの永遠の拠り所です。