2024年3月6日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 10:21~11:10

出エジプト記10:21~11:10

 今日は「暗闇の災い」からお読みしました。これは二つの意味で非常に象徴的な災いであったと言えます。

 第一に、これはファラオの権威を完全に否定する災いであったことです。ファラオは太陽神の化身と考えられ、畏れられていました。しかし、モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨みました。これがいかなる現象かは分かりません。しかし、暗闇が三日に及んだということは、明らかに太陽がその期間隠されたということを意味します。つまり太陽もまた、主の支配下にあることが明らかにされたのです。当然、エジプトの人々の目には、太陽の化身であるファラオが主の支配下にあると映ったに違いありません。そして、実際その通りなのです。

 第二に、これは本当に闇の中にあるのは誰であり、光の中にあるのは誰であるかが明らかにされた災いでありました。「イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった」と書かれています。これも実際には何が起こっていたのか、この記述だけでは分かりません。しかし、それが伝えているメッセージは明瞭です。

 それまでは太陽神とその化身のもとに、古代オリエント世界においても極めて豊かな繁栄を享受していたエジプトの民は、まさに光の中にあるように見えたはずです。一方、そこでこき使われている奴隷の民、イスラエルは、暗闇の中をはいつくばって生きているように見えたに違いありません。しかし、実はそうではなかったのです。主と共にあるなら、その人は光の中にいるのです。イスラエルの民はまだ解放されたわけではありません。依然として奴隷の民なのです。しかし、彼らは光の中にあるのです。そして、やがてその事実が、はっきりと現される時が来るのです。

 そして、ついに解放の時が近づいて来ました。最後の災いについて、まずどのような災いであるかを告げる前に、主はこう言われました。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい」(11:1-2)。

 つまり、ファラオはしぶしぶ去らせるというのではない。むしろ追い出すようにして去らせるというのです。いや、それだけではありません。出て行く際にはエジプト人から装飾品を求めさせよ、というのです。実際どうなったかを、先に少しだけ見ておきましょう。12:33以下には次のように書かれています。「イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした」。

 「分捕り物とした」という言葉だけを読むならば、イスラエルの民が不当にもエジプト人のものを奪ったように読めなくありません。しかし、実際には、これは神の正しい裁きの一部に他ならないのです。つまり、彼らは長い間、奴隷として抑圧され、搾取されてきたのです。彼らは不当に奪われてきたのです。そのことを神はご存じで、ただ「解放されてよかったね」ということで、それまでのことは無かったかのように扱うことはなさらないのです。神は正しく裁かれる。神は正しく報いてくださるのです。神が正しく取り返してくださる。神の正しい裁きが行われるとはそういうことです。

 実は、これは初めから既に語られていたことなのです。3章21節以下には次のように語られていました。「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」つまり、このことは神様の御計画に最初から入っているのです。神は苦しみから解放してくださるだけでない。イスラエルは神の正しい裁きを見せていただけるのです。そして、彼らは神の正しい裁きを知る民となるのです。

 確かに、ここまで長いプロセスを経てきました。それは一方において、エジプト人たちへの働きかけに他なりませんでした。その結果どうなったか。「主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」(3節)と書かれています。見る人は見ているのです。それゆえに、脱出の時には、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」(12:38)ということも起こってくるのです。歴代誌上2:34を見ると、系図の話の中に、後にエジプト人の召し使いなどが出て来ます。その脱出に加わった人々に、もちろんエジプト人の一部も加わったと考えてもよいでしょう。

 もう一方では、イスラエルにとっても本当の意味で神を知るということでもありました。神は正しく裁かれる神なのです。ならば、そこでイスラエルが区別されるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。私たちはイスラエルの人たちがエジプト人たちよりも敬虔であったから区別されたと思ってはならないのです。

 それは例えば、以下の箇所を参照すれば明らかです。「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」(ヨシュア24:14)。「わたしがイスラエルを選んだ日に、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせたとき、彼らに誓って、わたしはお前たちの神、主であると言った。その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に導く、と言った。わたしはまた、彼らに言った。『おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てようとはしなかった。そこで、わたしは言った。『わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、エジプトの地でわたしの怒りを浴びせる』と」(エゼキエル20:5‐8)

 そのような現実が一方にある中で、イスラエルの民は、エジプトの神々とエジプトの王が正しく裁かれるプロセスを目の当たりにしていたのです。そして、ついに最終的な裁きが行われることが告げられました。それがこの場面です。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない』」(11:4-6)。

 神御自身がエジプトの中を進まれます。これはある意味ではイスラエルの民にとっても大きな危機なのです。なぜなら、最後の災いについて主はこう言っておられるからです。「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む」。そして、「そのとき、エジプトの国中(直訳では「エジプトの地」)の初子は皆、死ぬ」と言っているのであって、「エジプト人の初子は皆、死ぬ」と言っているのではないからです。その意味合いは、次回読みます12章12節ではもっとはっきり語られることになります。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」。そして、先にも見たように、イスラエルの人々もエジプトの神々に関わってきたのである。その意味で、ここで語られる裁きはイスラエルにとっても無関係ではないのです。神がエジプトの中を進まれるならば、それはイスラエルの民にとっても危機なのです。

 にもかかわらず、先の言葉は次のように続きます。「しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう」。先に見ましたように、明らかに主がイスラエルの民を「区別」されるのは、彼らがもともと主を畏れ、主に従っていたからではありません。ではいったいどうしてこうなるのか。そこで重要なのが、12章において語られていることなのです。ポイントは「過ぎ越し」という言葉です。裁きが「過ぎ越す」という意味です。

 主の過ぎ越しについては、次回さらに詳しく学びます。主はファラオに最終的な裁きを告げる一方で、モーセとアロンに、イスラエルの共同体全体に告げるべき言葉が与えられるのです。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(12:3-7節)。

 羊や山羊を家族で食べるということは、それ自体は珍しいことではありません。決定的に重要なのは、傷のない一歳の雄でなければならないということです。そして、その血を柱と鴨居に塗るということです。なんのために血を塗るのか。そこで先に引用した言葉とその次の節が語られるのです。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(12:12-13)。

  主の裁きは《イスラエルの民》を見て過ぎ越すのではないのです。犠牲の小羊の《血を見て》過ぎ越すのです。「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」という表現は重要です。これは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しているのです。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。それゆえに、神の憐れみと赦しの内に留まるためには、神が定められた仕方によってそこに留まらなくてはならないことが語られるのです。人は、自分勝手な方法によって、神の赦しと救いを得ることはできないのです。彼らは、主が言われた通り、家の柱と鴨居に血を塗り、その家の中に留まらなくてはなりませんでした。このことを念頭において、今一度、今日の箇所に語られていることをよく思い巡らしたいと思います。

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