出エジプト記12:1~28
前回は、主がファラオに最終的な裁きを告げるところまでをお読みしました。今日の箇所では、主がモーセとアロンに、イスラエルの共同体全体に告げるべき言葉を与えています。それは次のような指示でした。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(3-7節)。
羊や山羊を家族で食べるということは、それ自体は珍しいことではありません。そこで決定的に重要なのは、その羊が傷のない一歳の雄でなければならないということ、そして、その血を柱と鴨居に塗るということです。
なんのために血を塗るのか。その理由が後に明確に語られています。前提となっているのは、来るべき主の裁きです。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」(12節)。ここで重要なのは、「エジプトの国(エジプトの地)のすべての初子を打つ」と語られているのであって、「エジプト人の初子を打つ」と語られてはいないということです。また「エジプトのすべての神々に裁きを行う」と言われていることです。先週、預言者エゼキエルの預言に見たように、イスラエルの人々は、エジプトの神々と無関係に生きてきたわけではないのです。その意味で、ここで語られる裁きはイスラエルにとっても決して無関係ではないのです。
そこで、柱と鴨居に塗る「血」が大きな意味を持つことになるのです。次のように語られているからです。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(13節)。
ここで「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」という表現は極めて重要です。主の裁きは《イスラエルの民》を見て過ぎ越すのではないのです。犠牲の小羊の《血を見て》過ぎ越すのです。このことは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しているのです。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。
だからこそ、ただ柱と鴨居に血を塗るだけでなく、後に次のように命じられているのです。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」(21-23節)。要するに、彼らは神が定められた仕方によって、神の憐れみと赦しの内に留まらなくてはならないということです。
実際に彼らはどうしたでしょうか。「それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った」(28節)と書かれています。人は、自分勝手な方法によって、神の赦しと救いを得ることはできないのです。もし伝えられた言葉を無視して血を塗らないならば、あるいは誰かがその血に塗られた家から迷い出るならば、その途端にその人は救いの根拠を失い、神の裁きのもとに身を置くことになるということを意味するのです。
さて、以上、ファラオに告げられた最後の裁きと、その日に関わるイスラエルの共同体全体に出された指示について見てきました。しかし、話はここで終わりません。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(14節)と語られていますように、ここに書かれていることはさらに、後々まで行われるべき「祭り」に関係しているのです。
まず、今日の箇所の始めに戻りますが、そこにはわざわざ「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)という指示が主によって与えられています。エジプト脱出のためだけだったら、この指示は必要ありません。エジプト脱出は一回限りの出来事だからです。しかし、「正月としなさい」と言われたら、「正月」は一年に一度巡ってくることになります。つまり、ここに書かれていることは、一回限りの救いのためだけではなく、毎年毎年巡ってくることを前提として語られているのです。つまり、一回だけ行うのではなく、毎年行うことを前提として語られているのです。
だから日にちの指定がなされているのです。小羊は正月の10日に用意するのです。14日までとりわけて置くというのは、実際には準備に4日間くらいかかるからです。なので屠るまで4日の猶予が与えられているのです。屠るのは14日の夕です。太陰暦で14日の夕と言えば、満月の夕に当たります。満月の夕に小羊を屠る。これならば分かり易いし、覚えやすいでしょう。これも毎年行うことを前提として語られているのです。小羊の選び方も書かれています。「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。」これもまた、後に繰り返されることが前提として語られているのです。
ですから、先に引用したように、14節にはこう書かれているのです。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」。これが「過ぎ越しの祭り」と呼ばれるものです。ここに書かれているのは、一回だけの話ではなく、過越祭の祝い方なのです。
そう考えますと、8節以下は実に興味深いと言えます。食べ方の指示が書かれているのです。何を食べるかが書かれているのはわかりますが、面白いのは、食べ方が書かれていることです。「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」(11節)。
もちろん、エジプト脱出の夜には、そのようなことが必要だったと言えます。ゆっくりなんて食べていられないからです。しかし、先に述べたように、これは繰り返されることが前提として書かれているのです。つまり、毎年、こんな寸劇みたいなことをするのです。脱出した後は、そのような仕方で食べる必要はないはずなのに、毎年、逃げる用意をして食べるようなことをするのです。
さて、これは何のためかということが重要なのです。何のために祭りを行うのか。もちろん繰り返し神に感謝し、神に栄光を帰するためであることは言うまでもありません。しかし、あえて「あの日」の出来事を再現して繰り返すのは、「あの日」の出来事によって救われた後の生活を形作るためなのです。そして、救われた人々の共同体を形成するためなのです。
「正月」にするのは、あの日の出来事を「原点」とするために他なりません。すべてはそこから始まったということです。「そこ」とは何か。裁きが過ぎ越されて救われたということです。言い換えるならば、ただ神の一方的な恵みによって救われたということです。救いの根拠は人間の側にはなかったということなのです。
先ほど見たように、「小羊の選び方」は指示されています。しかし、救われるべき人間の選び方は指定されていません。「今まで一度も偶像をおがんだことのない者」とか、「エジプト人との混血でない者」などの条件は書かれていないのです。この救いにおいて重要なのは、小羊の方なのです。あくまでも神の用意された救いの方法の方が重要なのです。そこに表されている神の恵みの方が重要なのです。人間に求められたのはただ信じて血を塗ることであり、そこに留まることだけだったのです。
それが原点でした。恵みによる救いが原点です。そこで「ああ、救われてよかった」ではなくて、その事実が今度は生活を形作るようにならなくてはならないのです。また、個人の生活を形作るだけでなく、その出来事が共同体を形作るようになることが重要なのです。そのために繰り返し祭りを行い、寸劇までするのです。
私たちが行っていることも、実は全く同じことであることが分かりますでしょう。教会が復活祭を祝うようになったのはなぜか。そもそも主の日に集まって復活を祝うようになったのはなぜか。なぜ聖餐を行うのか。なぜ寸劇のような、ままごとのようなことを繰り返すのか。恵みによって救われた者の生活が、それによって形作られるためです。それによって共同体が形作られるためです。私たちの信仰生活とはそういうものであり、教会とはそういうものなのです。
そして、祭りを行うのは、生活と共同体の形成のためと言いましたが、さらに言うならば、それは今の世代だけでなく、次の世代のためでもあるのです。24節以下には次のように書かれています。「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と」(24-27節)。
大人たちが行っていることを子供たちに見せるのです。意味が分かろうが分かるまいがその場にいさせて見せるのです。そして、子供たちがやがて問うようになる。そして、意味を説明するのです。そこには「我々の家」という言葉が使われています。子供たちは、そのようにして自分たちが「我々」の中にいることを知っていくようになるのです。自分たちも神の恵みの中にあること、圧倒的な神の救いの御業と御計画の中にあることを知るようになるのです。
そう考える時に、私たちの信仰による営み、儀式も含め、すべてを子供に見せているということは極めて大事なことであることが分かります。礼拝に子供がいるということは大事なことなのです。「いても子供には意味がわからないから」などと言ってはならないのです。