出エジプト記 12:29-51
先週は主がモーセとアロンを通してイスラエルの共同体に語られた「主の過越」(11節)について見てきました。主が与えた指示において、特に重要なのは小羊を屠り、「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(7節)ということでした。なぜなら、主が裁きを行われる時、主はイスラエル人を見てではなく、血を見て過ぎ越すと言われているからです。このことは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しています。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。
そして、これはただ救いにおける一回限りのことではなく、「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(14節)と語られていました。これが「過越祭」です。では何のために祭りを行うのか。神に感謝し、神に栄光を帰するためだけではありません。「この日」の出来事によって救われた後の生活を形作るためです。そして、救われた人々の共同体を形成するためなのです。
さて、先週お読みした箇所には、もう一つの祭りの名前が出てきました。「除酵祭」(17節)です。今日は29節からなのですが、そこに入る前に、「除酵祭」(17節)について触れておきたいと思います。15節以下に書かれていますように、それは過越祭に続く七日間です。そこには「七日間、酵母を入れないパンを食べる」(15節)、「正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる」(18節)と指示されています。そして最初の日に聖会を行い、最後の日に聖会を行うのです。
なぜ酵母を入れないパンを食べるのか。それはあのエジプト脱出の時においては当然のことでした。発酵させる時間がないからです。39節には次のように書かれています。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」(39節)。
これはいったい何を意味するのでしょうか。練り粉を発酵するいとまもなかった。十分に時間をかけて食料を準備することはできなかった。「ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」――これらはすべて、これが人間による綿密な計画によって実現したのではないことを示しているのです。もし人間が「脱出計画」を立てるならば、そして、脱出できることを前提にしているならば、道中の食事のことまで考えて相当に周到な準備をするに違いないのです。しかし、実際には、人間の側としては、最終的に解放されるその日まで、そもそも脱出できることすら想定していなかったという話なのです。主は「解放する」と言っておられたのですから、ある意味では人間の側の不信仰とも言えますが、しかし、もう一方において、これは人間がまさに信じられないようなことを、想定できないようなことを、神の圧倒的な力によって、一方的に与えられたことを示しているのです。そこにおいては、人間はひたすら神の為さることについていくのであって、先のことなんて思い煩ってぐずぐずしてはいられない。先はどうなるかわからないけれど、とにかく神の御業の中で脱出し、従っていくのです。
出エジプトというのはそういう出来事だったのだということを、後の時代になっても繰り返し思い起こすために「除酵祭」は行うのです。それによって、生活を形作るためであり、共同体を形作るためです。圧倒的な神の御業によって今があるのだということを意識するならば、そのような生活ができ、そのような交わりができるはずなのです。それを忘れると、人間がすることがすべてであるかのような生活になり、そのような共同体になるのでしょう。それは私たちの生活や教会も同じです。
さて、物語に戻りましょう。主はついに最後の裁きを実行されます。「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」(29-31節)。
神の裁きの前において、すべての人は平等です。ファラオも牢につながれている捕虜も変わりません。以前にも言いましたように、本来、イスラエルの民も神の裁きの前では変わらないのです。ただ、血を塗ったか、そして血を塗った家に留まったか否かの違いでしかありません。それゆえに、そこには明記されていませんが、「大いなる叫びがエジプト中に起こった」その時に、そこにはイスラエルの民が含まれていなかったのです。
ファラオはモーセを夜の内に呼び出しました。そして、「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい」(31-32節)。ついにファラオは主の求めを受け入れます。主の権威の前に屈することになるのです。しかし、それは初めからそうなることが定まっていたのです。
ファラオのみならず、エジプト人は皆、イスラエルの民をせきたてて、急いで国から去らせようとしました。彼らを支配したのは恐怖でした。「そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである」(33節)と書かれているとおりです。
こうしてイスラエルの人々は出発しました。そこで注目すべきは、以前も触れましたが、次の記述なのです。「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった」(37-38節)。ここで「種々雑多な人々もこれに加わった」ということは、例えば主を本当の意味で畏れたエジプト人なども加わったということです。つまりイスラエルは今後、単にアブラハムの子孫という血縁共同体でも民族共同体でもなく、「出エジプト」という神の恵みを共有する民となっていくのです。さらに言うならば、その後シナイ山に導かれ、律法を与えられ、神との契約を結ぶことになるのです。恵みを共有し、恵みに基づく「契約共同体」となっていくということなのです。
それと関連していますのが、43節以下の「過越祭の規定」です。「過越祭の掟は次のとおりである」ということで、最初に書かれているのは、「外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない」(43節)ということなのです。
今日的な感覚から言えば、これは「外国人差別」ということになるのでしょう。しかし、この場合、「外国人」というのは、血筋とか民族的な話ではないのです。これは「割礼を受けているかどうか」という話なのです。ですから、「ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる」(44節)というようなことが付記されているのです。外国人の奴隷であっても割礼を施すならば、過ぎ越しの食事を食べることができるのです。
一方、「滞在している者」や「雇い人」は食べることはできません。これらの人々は、滞在期間が終われば、あるいは雇用期間が終われば帰っていく人たちです。彼らは当然のことながら、割礼は受けないのです。しかし、もう一方において、たとえ寄留者であっても、割礼を受けるならば、過越祭の食事を食べることができます。「もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない。外国人寄留者であっても、割礼を受けるならば土地に生まれた者と同様になる」(48節)。
さて、先に申しましたように、これはエジプト脱出の時に「種々雑多な人々もこれに加わった」ということと関係しています。イスラエルの民以外が加わっているからこそ、「割礼」の話が重要になるのであり、さらに言えば、契約共同体に加わるか否かということが重要になるのです。しかし、これが本当の意味で大きな意味を持つのは、脱出直後ではなく、約束の地に入ってからです。ここに書かれていることは、約束の地に入った後の生活を想定していると言うこともできるのです。ですから「土地に生まれた者と同様になる」という話が出て来るのです。
これは何を言っているかというと、要するに、過ぎ越しの食事を、「単なる会食にしてはならない」という話なのです。単なる会食だったら、「外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない」となれば「かわいそうじゃないか」という話にもなるでしょう。今日的に言えば、外国人差別ということにもなるでしょう。単なる会食だったら、一時的滞在者でも食べたらよいし、外国人でもよいのです。しかし、過越の食事は単なる会食ではないのです。これは第一には出エジプトの再現なのであり、神の一方的な恵みによって救われたことを再現する食事なのです。そして第二に、その目的は、救われた人としての生活を形作り、そのような生活をする共同体を形作るためなのです。そして、この「共同体を作るため」が極めて重要なことなのです。
神は御計画によって「イスラエルの民」「イスラエルの共同体」を作ろうとしていたのです。神はそれを血縁共同体として作ろうとしていないのです。共通の「恵みの体験」によって作ろうとしているのです。だから、恵みによる共同体を形作るつもりのない人が食べても意味がないのです。その理解がないままに皆が食べるようになると、単なる会食になってしまい、その意味を失うことになるのです。
さて、お気づきのことと思いますが、これは聖餐ととても良く似ているでしょう。それは当然のことです。聖餐の原型はこの過ぎ越しの食事にあるからです。最後の晩餐は、マルコによる福音書によれば「過ぎ越しの食事」なのであり、いわばキリストの十字架によって実現した、本当の意味での「過ぎ越しの食事」なのです。ならば、当然のことながら、それを繰り返す聖餐を「単なる会食」にしてはならないのです。聖餐は神の一方的な恵みの出来事を再現し、それによって一方的な恵みにあずかった者の生活を形作る。また恵みを共有する共同体を形作るものだからです。だから、洗礼を受けて、教会に加わってから、教会という共同体の食事として聖餐を受けることになっているのです。