2023年12月24日日曜日

「何故クリスマスを祝うのか」

ヨハネによる福音書 1:1‐14

 クリスマス、おめでとうございます。しかし、本当は、クリスマスは明日です。私どもの教会では一足早く、こうしてクリスマスを祝っているわけです。しかし、明日にせよ、今日にせよ、祝うとするならば、その理由が分かっていなくてはなりません。ということで今日の説教題は「何故クリスマスを祝うのか」となっています。

 何故祝うのか。私たちはイエス・キリストのいわゆる「お誕生日」を祝っているのではありません。そもそも12月に誕生したのかどうかも分かりません。多分違うと思います。また、仮に12月25日に生まれたとしても、「その日に」生まれたこと自体が、私たちに直接関係あるとも思えません。

 では何故クリスマスを祝うのか。その一つの答えは、今日の福音書朗読に語られています。ヨハネによる福音書1章14節では、その答えがこう表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。

肉であるということ
 「言」とはキリストのことです。その直後に「父の独り子」と表現されています。父なる神の独り子であるキリストです。そのキリストが、神の御子が、人間となってくださった。「言が肉となった」とはそういうことです。

 ならば、「人間となった」と書けば、もっと分かりやすいでしょう。そうではなくて、わざわざ「肉となった」と表現されているのはなぜでしょう。実は、聖書が「肉」という言葉を用いる時、それはただ単に生物学的に「人間である」ということではないのです。もっと生々しい、人間の現実――まことに罪深い人間の現実が表現されているのです。

 それは、私たちが毎日、ネットやテレビのニュースでいやというほど見聞きしている現実です。血を分けた子供が親を殺し、親が子供を殺し、妻が夫を殺し、夫が妻を殺し、一つの国が正義の名のもとに別な国を破壊し、一つの民族が他の民族を蹂躙し、家族を殺された人々の怨念は報復テロとして形を取る。すべてアダムとエバから今日まで繰り返されてきた罪ある人間の現実です。「肉」であるとはそういうことです。

 それはニュースの中だけの話ではありません。私たちが日々経験していることもみな、同じ地平にあるのです。憎み、憎まれ、恨み、恨まれ、ねたみ、ねたまれ、裏切り、そして裏切られ、傷つけ、そして自ら傷つきながら生きている。人間とはそういうものなのだ、なんとか自分の心と折り合いをつけながら生きている。これが「肉」であるということなのでしょう。

 それは、本来の命の輝きを失ってしまっている人間の姿であると言うこともできます。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)と聖書には書かれています。神の栄光を映し出すような存在、それが本来の人間の姿です。しかし、現実にはそうなっていない。その意味で、そのような「肉」である人間社会の現実を、これでもか、これでもかとありのままに描いているのが聖書であるとも言えます。

 その聖書の中に「詩編」というものがありまして、そこである人が次のように祈っています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩篇130編)。「深い淵の底」それは「深い深み」という言葉です。それは這い上がれないほどの深みにはまっている姿です。それは何も特別な人ではありません。人間が「肉」であるとはこういうことなのです。

 もちろん皆が皆、叫んでいるわけではありません。深い淵の底にいることを忘れさせてくれるものはいくらでもありますから。しかし、人は生きている限り、深い淵の底にいるという事実と向き合わざるを得ない時が来るものです。それは人生の最後であるかもしれませんし、その途上であるかもしれません。いずれにせよ深き淵の底にいる自分を見出したとしても、そこから到底這い上がることができない。あまりに深いところにいる。それが「肉」であるということです。

言は肉となって
 しかし、聖書はそのような「肉」である私たちの現実をありのまま語るだけではなく、もう一つのことを語っているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と。いわばキリストが、その深い穴の中に下りてきてくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。高いところから、「そんなところにいてはならない。上がってきなさい」と命じているのではないのです。そうではなくて、その御方は深い穴の底に下りてきてくださったのです。穴の底で泥だらけになっている私たちと共に泥だらけになってくださったのです。私たちを救うために、あえて泥の中に沈んでくださったのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。

 そして、ヨハネは言葉を継いで次のように語ります。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネはキリストの弟子として、約三年半の間、寝食を共にしました。そのヨハネはその御方を思い起こしてこう語るのです。「わたしたちは、その栄光を見たではないか」と。父の独り子としての栄光を見たということは、言い換えるならば「神を見た」ということです。

 ヨハネはそのイエスというお方の中に神を見たのです。この世界の繁栄と栄華を手にした姿の中にではありません。人間と同じ穴の底で泥だらけになってくださった姿の中に神を見たのです。この世にある一人の人間として、罪に悩む者の傍らに立ってくださった、その御方の中に神を見たのです。病に苦しみ、希望を失っている者の傍らに立ってくださった御方の中に神を見たのです。愛する者を亡くして嘆き悲しむ者と共にたたずみ、一人の人間として涙を流された、そういう御方の中に神を見たのです。

 そして、最終的に罪人の一人として十字架にかけられた方の内に、ヨハネは神を見たのです。罪人として裁かれ、鞭打たれ、人々から嘲られ、唾をかけられ、殴られ、ボロボロにされ、そして十字架にかけられたその御方、その惨めなキリストの姿、栄光とはほど遠いその姿――その姿の中に神を見たのです。

恵みと真理に満ちていた
 そして、その十字架において現わされた栄光について、ヨハネはこう言うのです。それは「恵みと真理に満ちていた」と。

 それは「恵み」に満ちていました。「恵み」とは、受けるに価しない者に向けられた愛です。神の愛を受けるに価しない私たちに向けられた、神の一方的な変わることのない愛のことです。

 旧約聖書を読みますと、そこには神様に背いて、神様に逆らって、どうしようもない罪深い姿をさらしているイスラエルの人々の姿を見ることになります。しかし、神はそのようなイスラエルの民を手放そうとしないのです。切り捨ててしまおうとしない。もう相手にするに相応しくないような者であっても、神様は捨ててしまわないで愛をもって呼びかけ続けるのです。そこに見るのは神の恵みです。

 そして、その恵みが神に背を向けたこの世界に、そして、そこに生きる私たちに向けられているのです。ヨハネはキリストの言葉を行いの内に、その存在の内に、神の恵みを見たのです。

 そしてまた、キリストの姿は「真理に満ちて」いました。「真理」という言葉は、このヨハネによる福音書に繰り返し現れます。この「真理」とは、「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉です。ですからさらには、本当に信頼できるもの、本当に大丈夫と言えるものを意味する言葉でもあるのです。ですから「真実」と訳すこともできるのです。

 嘘ばっかりのこの世界に、見せかけでしかないものに満ちているこの世界に、本当のもの、真実なるものをヨハネは確かに見たのです。その御方は「真理に満ちていた」と。その御方が見せてくれた嘘でないもの、真実なるものとはなんでしょう。――それは神の愛だったのです。その御方が見せてくれたのは、私たちがどのような者であっても、決して見捨てようとはしない、決して変わることのない、神の愛だったのです。

 考えても見てください。深い穴のどん底にいるような私たちが、なお神を知り、神の命に与り、救いに与ることができるとするならば、それは神の側から来てくださって、「恵みと真理」を現してくださるしかないのです。神様が、受ける資格のない私たちをなお愛してくださり、私たちを決して見捨てない神の真実をもって私たちに関わってくださるのでなければ、私たちは救われないのです。そして、まさにその神の愛と真実とを、主イエス・キリストが現わしてくださったのです。私たちの所に来て現わしてくださったのです。

 それゆえに、この御方はまた「言」と呼ばれていたのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」と。思いを伝えるもの、それが言葉です。ある人は、このように表現していました。「イエス・キリスト、それは、神のもっとも内奥にあり、もっとも深いところにあった、究極の神の思いであります。」その究極の神の思いを、私たちは知らされたのです。神の恵みと真理、神の愛、絶対に私たちを見捨てない神の究極の思いを私たちは知らされたのです。

 ならば、何ということができますか。私たちは「肉」であることについて、望みを失う必要はないのです。自分自身についても他の人間についても望みを失う必要はないのです。この世界のあり様に絶望する必要はないのです。神が見捨てていないものを、私たちが諦めて見限る必要はないからです。神が見捨てていないなら、そこには救いがあるからです。希望があるからです。私たちは、神の究極の思いを知らされた者として、神の愛を知らされた者として、希望をもって自分と関わることができる。本当は、一番やっかいなのは自分自身なのでしょう。でも、希望をもって自分自身と関わることができる。他者とも関わることができる。この世界と関わって生きることができるのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」から。

 だから祝うのです。クリスマスを祝うのです。この世のパーティの喜びではない、天からの喜び、神からの喜びをもって祝うのです。今年もクリスマスを共に祝う私たちとして、大きな喜びをもって、心から神に感謝と賛美をささげましょう。


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