出エジプト記 3:13-22
今日は13節からお読みしましたが、まず先週の箇所を少し振り返っておきましょう。1節に「神の山ホレブに来た」と書かれていますが、「神の山」というのはもちろん出エジプト記を書いた人の注釈です。モーセはそんなことはつゆも知りません。モーセは神に会うためにそこに来たわけではなかったのです。彼は牧草を求め、羊を追ってホレブの山に来たのでした。その場所は彼の日常生活の場の一部なのです。彼の予定としては、いつものように羊を飼い、そしてやがていつもの場所に戻っていくはずでした。
しかし、神は人を待ち伏せし、人の日常の生活の中に入り込まれる神なのです。その神は、モーセにとって日常生活の場所でしかなかったその場所を指さして、「あなたの立っている場所は聖なる土地だ」と言われたのです。そして言われました。「履物を脱げ」と。神の御前にあることをわきまえよ、ということです。では、神の御前にあることをわきまえてモーセが脱いだ履物とは何でしょうか。
ミディアンに来てから四十年。そこにはミディアンで娶った妻もいます。子どもたちもいます。それなりの小さな幸せがそこにはあったのです。そんなモーセにとって、エジプトにおけるヘブライ人の苦しみは遠い世界の話であったはずです。忘れていれば忘れていられる。考えることがなければ、心が痛むこともない。考えないで生活をすることはできるのです。そのようなモーセにとって、「履物」とは、自分たちの小さな幸せのことだけを考えて羊を追ってきた「履物」だったのです。
しかし、その履物をモーセは脱いだのです。そして、次に履物を履く時には、自分の小さな幸せに留まるためにそれを履くのではないのです。神に遣わされた者として歩み出すために履物を履くことになるのです。そこに向かう神とのやり取りを、私たちは今読んでいるのです。
そして、それは私たちにも起こることです。私たちも、自分の人生が神の御前にあることを覚え、履物を脱ぎ、日常を中断して神の言葉を聞き、そして改めて神のために生きる者として履物を履くのです。そのようなことが私たちの人生に繰り返し起こるし、また起こらなくてはならないのです。
かくしてモーセはファラオのもとへと彼を遣わす神の言葉を聞くことになります。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)。そして、主はこう言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)と。
しかし、モーセはすぐに「ファラオのもとに行きます」とは言いません。しぶしぶではあったでしょうが、イスラエルの人々のところに行くことは了承するのです。しかし、かつてイスラエルの人々に拒否された苦い思い出が頭をよぎります。彼らにとって、モーセはあくまでもエジプト人でしかないのです。彼はイスラエルの人々のところに行っても「わたしたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされた」とは言えない自分であることは分かっているのです。
それゆえ、モーセは主に問いました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(13節)。
すると神はモーセの問いに答えて自らの名を次のように言い表されたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)。そして、さらにモーセにこう言われたのです。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ」と。
14節の「わたしはある。わたしはあるという者だ」という言葉は、以前の訳では「わたしは、有って有る者」となっていました。様々に訳し得る言葉ですし、豊かな意味の広がりを持つ言葉であろうとも思います。しかし、既に見てきたことから考えて、単に哲学的な意味における「絶対的な存在」ということではなさそうです。私の恩師であります左近淑という旧約学者は、これを「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳しました。私は時々左近先生の肉声と共にその翻訳を思い出します。
先週お読みしましたように、聖書の神は私たち人間の苦しみに目を留めてくださる神様です。その御方は、嘆き叫び求める声に耳を傾けてくださる神様です。この世における諸々の痛みを知っていてくださる神様です。遠く天高いところに鎮座まします御方ではなく、私たちが這いつくばって生きているこの低きところに降ってきてくださる神様です。この歴史の中に、私たちの現実の中に入ってきてくださる神様です。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行く」と言われるのです。
その神が念を押すように、自らの名を指し示し、「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と言われるのです。ならば、モーセはそのことを信じるのか否かを問われるところに追い詰められることになります。それは私たちも同じです。「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と言われる神を信じるか否かを問われるところに日々置かれているのです。
モーセもまた信じるか否かを問われる具体的な現実の中に置かれることになるのです。それはファラオのもとに行って、イスラエルの長老たちと共に立ち、そこで主を「わたしたちの神」と呼んで主の言葉を伝えることに他なりません。主はモーセにこう言われたのです。「あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください』」(18節)。
現在のファラオはモーセの親類です。恐らくモーセには面識のある人物です。かつては宮廷の人間だったのですから。さらに言えば、モーセはエジプト人の言葉も話せます。「エジプト王のもとに行って彼に言いなさい」という命令を遂行することは不可能ではありません。しかし、語ることが可能かどうかということと、語った言葉が受け入れられるかどうかということは、全く別な話です。モーセには分かっているのです。ファラオがそんな要求を絶対に受け入れるはずはない、と。
ならば通らない話を神が自ら通してくださるのでしょうか。いいえ、そうでもなさそうです。主は言われるのです。「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている」(19節)。モーセの言葉が拒絶されることを神はご存じなのです。そこには困難な道のりが続いているのです。しかし、最終的にはどうなるのか。「わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい」(20-22節)。
それは、単純に考えれば起こりそうにもないことです。しかし、その「最終的なこと」をも含めて、主は「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と言われるのです。あなたはそのことを信じるのか否か。モーセはまさにそこで問われているのです。
アドベントの第2週に入りました。アドベントは、主の再び来たりたもうを待ち望む信仰を新たにする時です。ということは、最終的にどうなるのかということに、改めて思いを寄せる時でもあるのです。イエス様は「インマヌエル」と呼ばれました。「神はわたしたちと共に」という意味です。キリストの到来によって、「わたしはいるのだ、確かにいるのだ」ということが明らかにされたのです。そして、それは最終的なことまでも含めて「わたしはいるのだ、確かにいるのだ」ということを示されたということなのです。キリストの再臨を待ち望むとはそういうことです。
現実には主がモーセに語られたように、困難はいくらでも目の前にあるのでしょう。しかし、最終的に主のご計画が遂行されることを信じて、私たちは「わたしはいるのだ、確かにいるのだ」という、ヤハウェという名前を受け入れ、信仰を言い表すのか否か、アドベントにおいて、私たちは改めてそのことを問われているのだと思います。