2023年12月20日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 4:1~17

 出エジプト記 4:1-17

 神はモーセの名を呼んだうえで、命じられました。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:9‐10)。

 この命令をめぐってのやりとりが今日読んだ4章まで続きます。この命令から明らかなように、神はモーセの意向を打診しにきたのではありません。既に決まっているのです。それを伝えて、モーセの「はい」を聞くために主は出会われるのです。これを「召命」と言います。

 これに似た場面は聖書にたくさんあります。一番似ているのはエレミヤという人が召された時です。主は言われます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。すると「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」とエレミヤは言うのです。しかし、もう決まっているのです。だから彼は行かなくてはならない。

 イエスの母マリアも同様でした。「おめでとう、恵まれた方」と言って天使が現れます。「あなたをメシアの母にしたいと思うのですが、いいですか」なんて言わないのです。イエスの弟子たちもそうでした。「わたしについて来きますか」とは聞きません。「わたしに従いなさい」と言うのです。

 神はお用いになるために人を召されます。その召しに対して人間は「はい」と答えます。これが召命です。これは何もモーセのような特別な人の話ではありません。私たちも同じです。私たちが洗礼を受けてキリスト者となることも同じなのです。この世にキリスト者として生きることへの召しなのです。私たちからすれば、自らいろいろ考えて私たちが洗礼を受けることを決めたように思いますけれど、本当はそうではないのです。神の召しが先にあるのです。あなたはキリストの弟子になりなさい、と神は言われた。それに対して「はい」と真心から答えた。そして、洗礼を受ける。洗礼を受けたとは、そういうことです。

 そのように神が召される。人は「はい」と答える。本来、そうあるべきなのです。しかし、人間はそれに対していろいろ言いたくなるのです。それがここに見るモーセの姿です。彼は言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)。しかし、主はモーセのこの問いに答えようとはされません。彼にただ一つの約束を与えられました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と。

 そして、主は御自分の名前をモーセに示されました。これは正確には主(ヤハウェ)という名前の意味を示されたということです。神はモーセに言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。これは「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳し得ることについては先週申し上げました。まさに共にいる神、その共にいる神が人を召すのです。

 そして4章に入ります。「共にいる神」が召しておられる。しかし、どうしても人間はその「召してくださっている方」に思いがいきません。「わたしは何者でしょう」の「わたし」の方に思いが向くのです。そこに執着するのです。そこで持ち出されるのが、まずは「わたしの経験」です。そして、次に「わたしの能力」です。わたしの経験によればこれは無理だ。わたしの能力を考えたら、これは無理だ。そう人間は答えるのです。

 モーセはまず自分の経験に基づいて神に答えます。「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」(1節)。人々は自分に従わないだろう。それがモーセの経験でもありました(使徒7:23‐29)。

 これに対して神はまず、二つのしるしを与えられました。手に持っている杖がへびになる。これが一つ。その次に、手が重い皮膚病になり、それが再び癒される。この二つを信じないなら三つ目があります。ナイル川の水が血になるというのです。

 ここで語られていることは、ある意味では単純なことです。モーセは「彼らは信じない。わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのです。しかし、神はモーセの手を通して不思議なことをされる。その不思議な出来事を見るならば、モーセが確かに主に出会ったということを信じるでしょう。要するに、そういう話です。

 しかし、実は神がしるしを現されるというのは、ここだけではないのです。この後にもたくさんでてきます。そして、最終的には決定的な出来事として、葦の海が二つに分かれるのです。その間を通ってエジプトを脱出するという話になります。

 つまりモーセが遣わされ、「わが民イスラエルをエジプトから連れ出しなさい」と主はモーセに言われるのですが、現実に民を連れ出すのは神なのです。神の介入が起こるということ、神が介入されるということは、そこに新しい未来が開けるということでもあるのです。

 経験に基づいて語るならば、イスラエルはエジプトからは絶対に出られないのです。どう考えても出られない。もう長い間奴隷であったのですから。しかし、神の時が来て、神が介入される時に、そこに閉ざされていた未来が開けるのです。未来は過去から現在の延長にはないのです。神のしるしはそのことを示しているのです。ただ単に人々をびっくりさせて信じさせるという手段ではないのです。

 経験に基づいて語るなら、杖は永遠に杖のままなのです。しかし、神が介入されるならばそれがへびになるのです。また、きれいな手が突然皮膚病になる。そのようにある日突然災いが起こります。ある日、突然災いが起こるということは案外信じ易いものです。しかし、神が介入されるなら、その災いは幸いに変わるのです。皮膚病になったことは悲しみだけれど、神はそれを癒して喜びに変えることもできるのです。さらに言えば、ナイルの水は永遠に水なのだ、ということです。いや、それは血にだって成り得るのだとこの奇跡を通して神は言っており、聖書は証言しているのです。

 人間は「わたしの経験によれば」と言って神の召命に逆らいます。しかし、神は人間の経験をひっくり返すことのできる御方なのです。それがモーセに与えられたしるしであり、これからの物語の展開を示す出来事だったのです。

 しかし、それでもモーセはなお「はい」と言いません。「わたし、わたし」のもう一つは自分の能力です。モーセは言います。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。」しかし、主は言われる。「一体、誰が人間に口を与えたのか」と。本当に重要なのは、自分の口ではなくて、口を与えた神なのです。自分の「口」ではなく、この「誰が」の方に思いを向けなくてはならないのです。

 ところで、モーセは「もともと弁が立つほうではない」と言います。本当でしょうか。考えてみれば、エジプトで最高の教育を受けたモーセです。イスラエルの奴隷に対して「弁が立たない」、本当はおかしいのです。それは昔の人もそう思っていたみたいで、使徒7:22には「そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました」と書かれています。

 しかし、モーセが誇り得る自分の能力を用いようとしていた時には、神はモーセを用いられなかったのです。その思いが挫折し、枯れてしまってから、主はお用いになろうとされたのでした。そして、結果的にどうであったか。出エジプト記を読むと、結構モーセはしゃべっているのです。申命記などはまるまるモーセの説教です。もちろん主が言葉を与えたということもあるでしょうが、もう一方においてかつて培われたものは、ちゃんと用いられているということでもあるのです。

 さて、そのように「このわたしがあなたの口と共にある」と言われても、モーセはなおこう言いました。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。私たちもしばしばこのような思いを抱きます。「だれかほかの人に」と。

 しかし、私たちは覚えておかなくてはなりません。神が召される時、それはその人でなくてはだめなのです。「だれかほかの人を見つけて」ではなく、この場合モーセでなくてはだめなのです。それが召命というものなのです。わたしたちがキリスト者になったことも同じです。あなたがキリスト者になったということは、神の目から見たら、他の人がキリスト者になったということと意味が全く違うのです。あなたでなくてはだめだということです。教会員が一人増えるなら、この人でもあの人でもいい、ということではないのです。

 神は「あなたではなくてはだめだ」と言われます。これが分からないと神様は怒ります。主は「ついに、怒りを発した」と書かれています。しかし、神は怒るのだけれど、モーセの気持ちを汲んでアロンを備えます。こうして見ると、実に神は忍耐強く人を召されることが分かります。人間はいろいろとゴチャゴチャ言いますが、神はあくまでも「あなたをあなたとして」召そうと忍耐をつくされるのです。他の人ではだめだからです。

 

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