2023年12月10日日曜日

「キリストのもとに行き命を得るために」

ヨハネによる福音書 5:36-40

イエス様の自己証言
 私たちは3週間前の主日礼拝において、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)という主の御言葉を聞きました。そのように主が御自分について宣言なさったのです。「わたしが命のパンである」と。

 そのようにイエス様が御自分について宣言される場面は、ヨハネによる福音書においては珍しくありません。その他にも、例えば、主は御自分について次のように語っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(10:9)。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。その他にもあります。一度、時間を取って、イエス様が御自分について何を語っておられるか、一つ一つ拾い上げてみてください。

 とにかくイエスという御方はこのようなことを語られる方なのです。皆さん、こういうことを言うと、聞いた人はつまずくのです。当時のユダヤ教世界においては、抵抗を覚える人だけではありません。敵対する人、殺そうとする人さえも起こってきたのです。

 その意味において、イエスという御方は単に良い教えを説いた教師などではありません。イエス様が良い教えを説いていただけならば、弱い人の友となり病人を癒していただけならば、人はつまずかなかったのです。あるいはイエス様が「わたしが道を示そう」と言っているだけならば人はつまずかないのです。しかし、「わたしが道だ」と言うならばつまずくのです。実際、この方の言葉を聞いて多くのユダヤ人たちはつまずいたのです。

 それはイエス様の時代においてだけではありません。この御方が宣べ伝えられるところにおいては、いつの時代においてもつまずきが起こったのです。イエス様が語っておられるのは、人がそれを聞いてつまずいても不思議ではない言葉なのです。人が信じ受け入れなかったとしても不思議ではない言葉なのです。

 ならば、その言葉の前に立たされる時、私たちの側が問われているとも言えるのでしょう。あなたはそれでもなおこの御方を信じますか。この御方のもとに行きますか。その御方に自分自身をゆだねますか、と。

 実際どうですか。私たちには根源的な飢え渇きを癒してくださる方がいると信じますか。私たちにはどんな暗闇においても光となってくださる方がいると信じますか。私たちには開かれた救いの門があると信じますか。私たちには命を捨てるほどに愛してくださる羊飼いがいると信じますか。その方を信じるなら、もはや死んでも生きるのだと本気で信じますか。その方を通って必ず天の父のもとに行けると信じますか。

 これがイエスという御方なのです。私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしているのです。だからこそ、今日読まれた聖書の言葉は特別な意味を持つのです。

 主はこう言われました。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(36‐37節)。

 繰り返しますが、私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしています。しかし、私たちはイエス様の自己証言だけに耳を傾けていてはならないのです。

 一般的な裁判においては、事が立証されるには二人ないし三人の証人の証言が必要とされました。自分が自分について語る証言だけでは十分ではないのです。イエス様はそのことを念頭に置いて、今日の箇所の少し前でこう言っておられるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。その意味合いは、自分自身について証しをしているだけならば真実と認められなくても仕方がないということです。だから他の証言についても主は語られるのです。私たちは他の証言にも耳を傾けなくてはならないのです。

新約聖書の証し
 そこでイエス様はまず御自分のなさっていることに目を向けさせます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。イエス様は御自分について語られるだけではありませんでした。イエス様は自ら行動なさったのです。イエス様は事を起こされたのです。私たちはイエス様の言葉だけでなく、イエス様のなさっている行いを伝えられているのです。

 「わたしの行っている業」というのは、狭い意味においてはイエス様のなさった奇跡を指します。しかし、イエス様がなさったのは病気の癒しなどの奇跡ばかりではありません。例えば、イエス様は徴税人や罪人と一緒に食事をなさいました。イエス様が人々との関わりにおいてどのように行動なさったか、どのように人々と向き合われたのか、「わたしの行っている業」とは、そのすべてのことを指しているのです。

 さらにはイエス様が最終的に十字架において成し遂げられた罪の贖いをも指していると言えるでしょう。ですから「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」という言い方がされているのです。実際、主は十字架の上で「成し遂げられた!」と叫ばれたことをこの福音書は伝えているのです。

 そのようなイエス様の御生涯とその意味するところが新約聖書において私たちにまで伝えられているのです。そのように新約聖書に書かれているのは、書かれる以前に、イエス様のなさったことを伝えた人々がいたからです。イエス様の言葉と共に、イエス様がなさった一つ一つのことが大事なのだと思って、懸命に伝えてきた人たちがいたのです。それが後々にまで伝えられるように、福音書として書き残した人々がいたのです。なぜですか。イエス様の御生涯、特に公生涯と呼ばれる最後の三年半になさったことそのものが、この御方が誰であるかを証ししているからでしょう。

 二千年後にまで、その証言が伝えられていることはなんと驚くべき恵みでしょう。四つの福音書や新約聖書におけるその他の文書が、言葉を尽くして、イエス様のなさったこと、成し遂げられた御業とその意味するところを今日の私たちにまで伝えてくれていることは、なんと感謝すべきことでしょう。私たちはキリストの御生涯の証言である新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。

旧約聖書の証し
 そして、さらに主は言われます。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」。

 細かいことを申し上げますが、実はこの「証しをしてくださる」は、原文においては、未来において「いつか証しをしてくださるであろう」と言っているのではありません。「既に証しをしてくださっている」というニュアンスの言葉なのです。文法的には完了形で書かれているのです。

 どういう形で既に証しをしてくださっているのか。実は、イエス様が語っているのは「聖書」についての話なのです。既にイスラエルの歴史の中において神は語ってこられ、そしてその神の証言が聖書として残されているのです。聖書において、父が既にキリストについて証ししてくださっているのです。

 ですから主はさらに聖書についてこう言われるのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(39‐40節)。この場合の「聖書」とは、私たちが旧約聖書と呼んでいるものです。

 ユダヤ人たちは聖書を研究していました。ラビ的解釈の細かさは現代の私たちが読んでも驚くほどです。本当に細かく、一語一句大切に解釈するわけです。私たちは彼らがどれほど聖書を大切にしたか、ある意味では見習わなくてはならないでしょう。しかし、残念ながら彼らは永遠の命が「聖書の中に」あると考えていたのです。聖書そのものが永遠の命を与えてくれるように思ったのです。だから、聖書の言葉、律法をどれだけ身につけるかが最大の関心だったのです。著名なラビであるヒレルという人はこう言いました。「律法の言葉を身につけたなら、来世の命を身につけたのである」。

 しかし、イエス様は、「そうではない」と言われるのです。聖書は、そのものが永遠の命を持つのではなくて、私たち人間に必要な救い主を指し示し、救い主に導くのが聖書なのです。私たちをイエス様のもとに行かせ、イエス様のもとにひざまずかせ、「わたしをお救い下さい」と言わしめるもの、それが聖書なのです。父なる神は、この世にキリストをお遣わしになる前から、キリストについて証ししていてくださったのです。それが旧約聖書なのです。

 そのように、私たちにキリストを証しする旧約聖書と新約聖書が与えられています。日本基督教団信仰告白の中にも次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与える神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」私たちはこれからも、キリストを証しする神の言葉として、旧新約聖書に熱心に耳を傾けたいと思うのです。

 主はあの時、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と嘆いておられました。それは、復活して今も生きておられるキリストの嘆きでもあり、なんとしても御自分のところに来て欲しいという主の願いの現れでもあるのでしょう。なぜなら、この御方は二千年後の私たちにとっても、命のパンであり、世の光であり、救いの門であり、良い羊飼いであり、死んでも生きる復活であり、父への道であるからです。それを一言で表現すれば「永遠の命」となります。主は今もすべての人を、私たちを、この命へと招いておられるのです。
 

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