2023年4月26日水曜日

祈祷会用:ユダの手紙 1~13

ユダの手紙 1-13

 今日から2回にわたってユダの手紙をお読みします。25節しかない短い手紙です。イエス様には、この世的には「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」(マタイ13:55)という四人の弟がいたことが知られていまして、この著者はその一人、「ヤコブの兄弟であるユダ」です。宛先は特定の教会ではなく、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ」となっています。回覧されるために書かれた手紙と考えられますので「公同書簡」の一つとされています。

 ユダは本文に入りまして、まず「愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました」(3節)と書き始めます。それがユダのたっての願いでした。しかし、この手紙には救いについての説明はありません。実際には、「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うこと」(同)の勧めが主な内容です。それは救いについて語ることよりも現実的には重要だったのです。

 なぜなら、ユダにとって救いとは「共にあずかる」べきものだったからです。自分が救われればよいのではない。ユダにとっては「わたしたちが共にあずかる救い」ということが重要なのです。ユダが「愛する人たち」と語り掛けている人すべてが共に救いにあずかることが重要なのです。

 ならば、時として、信仰のために戦うことが重要になってきます。なぜなら、信仰を脅かし、救いから引き離そうとする力が働いているからです。具体的な問題として、ユダは次のように語っています。「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです」(4節)。

 これは既にペトロの手紙やヨハネの手紙で見てきました、後に「グノーシス」と呼ばれることになる異端の教師たちです。彼らは具体的には先週お話ししたように、巡回教師という形で入って来るのです。そして、彼らはここに書かれているように、ある意味では「ひそかに紛れ込んで」来るのです。信仰を脅かし、信仰生活を破壊するものが、明らかに危険なものとしてもたらされるならば問題はないのです。しかし、往々にしてそうではないのです。「これのどこが問題なの?」「全く問題ないではありませんか」というような形で入ってくるのです。

 しかし、ここでは特に、異なる教えの内容そのものよりも、それがもたらす具体的な生活が問題とされています。「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え」ということが起こってくるのです。「みだらな楽しみ」とは自由をはき違えた放縦な生活のことです。特にこの言葉は性的な乱れを意味します。以前にも申しましたように、グノーシスの異端の特徴は、目に見えるこの物質世界での生活の軽視でした。重要なのは目に見えない霊的なことであり、目に見える体が行うことは重要ではないのです。しかし、その教えがもたらしたのは罪を罪と認めない放縦な生活でした。しかし、それはまさに「唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」ことに他ならなかったのです。

 なので、ユダはこの手紙を書いているのです。そこにおいて重要なことは「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うこと」だからです。本当に信じるべき事柄は、キリストの受肉と贖罪において、ただ一度、決定的なこととして現されたからです。なので、それはただ一度伝えられたのであって、どのような神秘体験を通しても、どのような哲学的な思弁を通しても、最初のものとは異なるものとして二度目に伝えられることはないのです。ですからヨハネは「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう」(1ヨハネ2:24)と語っていたのです。

 そのように、初めから聞いていたこと、聖なる者たちに一度伝えられた信仰を堅持することは戦いです。信仰における戦いです。そこで重要なことは聞いてきたことを思い起こすことです。ここで特に取り上げられているのは神の裁きの物語です。「あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい」(5節)と言って、ユダは神の裁きが現された三つの物語を提示します。

 一つ目はエジプトから救い出された神の民の物語です。彼らは主の一方的な恵みによってエジプトから救われましたが、皆が約束の地に入ったわけではありませんでした。主は「信じなかった者たちを滅ぼされたのです。」このことについてはパウロも1コリント10章で触れ、次のように語っていました。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:11-12)。

 そして、二つ目は堕落した天使たちに対する裁きです。「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。」これは旧約聖書の中に記されている物語ではありませんが、第一エノク書というユダヤ人の書物を背景とする、読者にもなじみのある話だったものと思われます。そして、重要なのはこれが三つ目の「ソドムやゴモラ、またその周辺の町」の裁きと共に語られているということです。天使たちに対する裁きも基本的には旧約聖書に記されているソドムやゴモラに対する裁きと変わらないということです。その裁きについては次のように語られているのです。「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」

 それらの物語を「思い出してほしい」とユダは言います。そこで求められているのは神への畏れです。「一度伝えられた信仰のために戦うこと」において決定的に重要であるのは、正しい意味での「神への畏れ」なのです。

 神の裁きの物語を思い起こし、健全な神への畏れを持つならば、神が何を忌み嫌われ、何が神の正しい裁きによって滅びをもたらされるかが見えてくるはずなのです。そこでユダは激しい言葉で異端の教師たちを断罪します。8節以下を繰り返し読んでみてください。こんなことまで言ってよいのかと、いささか抵抗を覚えるほどです。

 しかし、ユダがそこまで語らざるを得ないのは、実際にはそう見えないからでもあります。以前も申しましたように、一般的には異端の教師たちというのは非常に魅力的に見えたはずなのです。ユダは彼らを「夢想家たち」と呼びます。そう訳されると否定的な言葉に聞こえますが、原語においてはもともと神秘的な霊的な幻を見る人たちという意味合いです。彼らは自らの体験に基づいて神秘を語るのです。また、彼らは当時の哲学に精通していた人々であり、彼らの思想は広範な哲学的な背景を持っているのです。その彼らが既存の道徳に捕らわれない一見非常に自由な生活をしているならば、それはまさに宗教的に与えられた自由な姿に見えるのでしょう。しかし、正しい畏れをもって彼らのありのままの姿を見るならば、それは身を汚し、神の権威を認めない姿であり、ただ本能のままに生き、そして滅びていく、分別のない動物のような姿でしかないのです。

 もちろん、ユダ自身は裁きを神にゆだねるべきことを弁えているのです。大天使ミカエルが悪魔と言い争った話は、これもまた旧約聖書に出て来るものではなく、「モーセの昇天」というユダヤ人の書物に由来する、よく知られていた話のようです。そこで重要なのは、大天使ミカエルは「主がお前を懲らしめてくださるように」と言ったということです。だから、ユダ自身も最終的に裁きは神にゆだねているのです。しかし、それでもなお激しい言葉で異端の教師たちを断罪するのは、彼らが「ひそかに紛れ込んで」来ることの恐ろしさを知っているからです。繰り返しますが、信仰を脅かし、信仰生活を破壊するものが、明らかに危険なものとしてもたらされるならば問題はないのです。実際にはそうではない。だから、この手紙を読む人々にも警戒して欲しいのです。それは私たちにとっても必要なことなのでしょう。
(祈り)

以前の記事