2023年4月12日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙二

ヨハネの手紙二

 今日はヨハネの二つ目の手紙をお読みします。とても短い手紙です。個人的な私信とも取れるような手紙です。しかも、内容的には第一の手紙に書かれていたこととほとんど重複しています。このような手紙が聖書に含まれているのは不思議なことです。しかし、逆に言えば、ここで扱われている事柄が当時の教会においていかに深刻なことだったかを示しているとも言えるでしょう。すなわち異端の問題です。教会が真理からそれてしまうという問題です。ですから、何度でも同じことを繰り返さなくてはならなかったし、教会の人はそれを心に刻まなくてはならなかったということです。

 個人的な私信とも取れると申しましたが、宛名は明記されていません。「選ばれた婦人とその子たち」としか書かれていません。特定の婦人に対する手紙なら名前を書いて良いはずなので、古くから「婦人(キュリア)」というのは固有名詞だろうとも言われてきました。

 しかし、もう一つの解釈がありまして、この婦人とは教会を指し、「その子たち」は教会員を指すというものです。教会(エクレシア)は女性名詞ですから。旧約聖書に「シオンの子ら」という表現が出て来まして、ちょうどそれに当たるわけです。内容からすると、それが正しいのではないかとも思います。個人とその子供たちと考えると、「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」というのも変な話ですから。むしろ「真理を知っている人は教会を愛する」と語っているのでしょう。

 いずれにしても、ここで「真理」と「愛」とが結びつけられていることに注目することが大事です。1節の前半もそうです。「わたしは、あなたがたを真に愛しています」と書かれていますが、これは直訳すると「あなたがたを真理において愛しています」となるのです。また、3節にもこう書かれていますでしょう。「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」(3節)。ここにも真理と愛が一緒に出て来ます。

 4節には、「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」とあります。「掟どおりに、真理に歩んでいる」のです。その「掟どおり」ってどういうことですか。次にこう書かれています。「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」(5節)。そのような掟どおりに真理に歩むのです。そのように、ここでも真理と愛とが結びつけられていますでしょう。

 そのように、今日与えられているメッセージは、真理と愛とをきちんと結びつけるということなのです。切り離してはいけない。真理とは、この場合、正しい信仰のことです。もう一方で異端がいるわけですから。間違った教えに行かないで、正しい信仰に踏みとどまること。それはとても大事なことだったわけです。しかし、ヨハネが喜んでいるのは、彼らが「御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる」ということだったのです。つまり教会を愛し、互いに愛し合うということにおいて、確かに正しい信仰が形を取って現されているということです。

 逆に言えば、「真理に歩んでいる」と言いながら、「御父から受けた掟どおり」になっていなかったら、どこか変だと思わなくてはならない、ということです。「わたしは正しい信仰を持っている。わたしは真理を知っている。わたしは神を知っているし、わたしはキリストとの交わりがある」と言いながら、教会を愛することがない、互いに愛することもない、ただ神と自分との関係しか考えられないとしたら、それはどこかおかしい、ということです。愛から切り離された真理はあり得ないということです。

 どうして、そのようなことが語られなくてはならないのか。どうしてここで真理だけでなく「御父から受けた掟」が出てこなくてはならないのか。ヨハネはこう言っています。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとはしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」(7節)。さて、これまで繰り返し出て来たグノーシスの異端の話が出て来ました。彼らはイエス・キリストの受肉を否定する人たちだったことは既に述べました。さらに言えば、肉を取ったキリストによって贖罪がなされたことをも否定していた人たちです。

 既に見てきたように、グノーシスの異端には哲学的に非常に層が厚いバックグラウンドがあるのです。それはちょっと何かを語っただけで否定できるようなものではないのです。また異端の人たちには、それなりの神秘的な体験もあるのです。それもまた、簡単に否定できることではないのです。ですから単にイエス・キリストの受肉と贖罪を語る信仰告白の言葉をオウム返しに繰り返しているぐらいでは、簡単に足下をすくわれてしまうのです。どうして「受肉」なのか。どうして「贖罪」なのか。なぜ神は人とならねばならなかったのかをしっかりと捉え、その理解が現実の信仰生活を作り出しているのでなければならない。そこでキーワードとなるのが「愛」なのです。

 神はただ私たちにキリストを通して真理を啓示されたのではないのです。そうではなくて、神は私たちを「愛してくださった」のです。愛は観念ではありません。単なる感情でもありません。愛は具体的な行為です。具体的ですから「体」が必要なのです。ですから、神は御子に「体」を取らせたのです。神が具体的に愛するためです。それが極まるところが十字架なのです。それを第一の手紙ではこう表現していましたでしょう。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:9‐10)。

 ゆえに「真理」というのは、単に観念的な「正しい信仰」ではないのです。真理に歩むというのは、ただ正しい信仰箇条を受け入れているということではないのです。真理とは神が肉となって体をもって現してくださった具体的な愛なのです。ですからイエス様は「わたしは真理を教えてあげよう」と言わないで、「わたしが真理だ」と言ったのです。

 この受肉と贖罪の信仰を真理として受け取ったならば、当然のことながら、私たちもまた体を持っているということが極めて重大なこととなるではありませんか。具体的な愛を知ったならば、グノーシスの異端のように、「目に見える物や目に見える世界は意味がない。この肉体は意味がない。肉体が何を行うかは大して重要なことではない」とは言わないはずなのです。この体は愛するための体だということが分かるでしょう。ですから、先ほど引用した1ヨハネの言葉はこう続くのです。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11)。これが既に述べられている「御父から受けた掟」です。その掟は、神の具体的な愛を通して与えられたのです。この「掟どおりに真理に歩む」ことが重要なのです。

 そしてさらに、「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」(10節)と書かれています。家に入れない。挨拶もしない。それは愛にもとる行為ではありませんか。いいえ、それほど単純な話ではありません。というのも、この場合、「あなたがたのところに来る者」とは一般的な人の話ではなくて伝道者の話であり、「家に入れる」とか「挨拶する」とは教会に受け入れたり、仲間であることを表明したりする話だからです。真理をないがしろにして異端を教会に受け入れることが本当の意味で愛にならないことは明らかでしょう。むしろそれは異端の働きに加わってしまうことになるのですよ、ということを言っているのです。愛から切り離された真理はない。しかし、真理から切り離された愛もないのです。

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