2023年4月19日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙三 1~15

ヨハネの手紙三 1-15

 これまで度々異端の教師たちの問題が語られてきました。第2の手紙においてははっきりと「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」(2ヨハネ10)と書かれています。これは個人の関係の話ではなくて、教会に受け入れてはならない、という話であると先週説明しました。このように初期の教会にとって、巡回する異端の教師の存在は大きな問題をもたらしていたのです。

 しかし、もちろん巡回する教師のすべてが異端であるわけではありません。むしろ誕生してまだ数十年しか経っていない教会にとって、巡回教師や巡回する使徒たちの働きは大きな意味をもっていたのです。使徒言行録にも見られるように、正しい信仰を教える人々が旅をして回っていたからこそ、誕生して間もない諸教会も信仰における一致を保つことができたのです。今日お読みした手紙には、そんな巡回教師の制度が話題になっています。

 この手紙はガイオという一信徒に宛てた手紙です。4節までは挨拶です。本文に入りまして最初に「愛する者よ、あなたは兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くそうとしています」(5節)と書かれています。この「よそから来た人たち」というのが巡回する教師たちです。彼らについては7節で「御名のために旅に出た人」と呼ばれています。

 巡回教師たちの生活は、受け入れるキリスト者の善意によってのみ支えられていました。彼らについて「異邦人からは何ももらっていません」とはそういうことです。この場合、「異邦人」というのは非キリスト者のことです。彼らは、世俗的なところからのサポートや報酬はありません。ただ教会によってのみ支えられるのです。そのような巡回教師を支えていた人々のひとりがこのガイオでした。

 教会がしっかりと真理に立つためにこのような巡回教師の役割がいかに重要であるかを知っているからこそ、ヨハネは「だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば真理のために共に働く者となるのです」と言っているのです。人は皆、旅に出ることができるわけではありません。皆が伝道者になるわけではありません。皆が宣教師になるわけではありません。しかし、彼らを支えることによって、「真理のために共に働く者となる」というのです。

 わたしの父は、若かりし日に神学校に行って伝道者になるべきか否かを迷って、本気で主の導きを祈り求めた人でした。しかし、神様の応えは「牧師になりなさい」ではありませんでした。父が導かれたのは商売の道でした。彼は20代で脱サラし事業を始めました。大いに稼ぎ、大いに献げ、教会を支え、伝道者を支える。それが神から与えられた導きでした。父は確かにそのように生きた人でした。人はそのように真理のために共に働く者となれることを身近で見ることができたことは、わたしにとっても幸いなことでした。またそのことを通して、伝道者が人から支えられながら働くことの意味や大切さを学んだようにも思います。

 さて、そのように巡回教師たちに誠意をもって尽くしていたガイオがいる一方で、巡回教師の存在を嫌う人たちもいたようです。そのような一人が今日の箇所に名前の出て来るディオトレフェスです。

 ここに書かれているのは、いつの時代にも起こり得る教会の事情です。教会がまだ誕生したばかりで小さな群れで礼拝を守っているときには、使徒たちや巡回教師たちが訪問して来てくれるということは大きな喜びであり、励ましであったに違いありません。また実際に経済的にも小さな群れだけではやっていけなかったでしょうし、真理の教えについてだけでなく、実際的な伝道の働きを進めるにあたっても、他の教会の支えが必要であったに違いありません。

 しかし、そのような教会が成長し、教える賜物や預言の賜物など豊かに与えられた人たちがその群れの中に存在するようになり、人数も増え、経済的にも豊かになってきたらどうでしょう。自分たちは自分たちの群れだけでやっていける、と思うのではないでしょうか。むしろ他の教会にかかわると力が削がれる。巡回教師などがやってくるとお世話しなくてはならない。負担も増える。そんなふうに思うようになることは考えられるでしょう。

 いやそれだけではありません。巡回教師は教えに来るわけです。使徒たちもある権威をもって指導しに来るのです。すると自分たちの群れに干渉されるのが煩わしくなるかもしれません。自分たちは自分たちのやり方でやりたい。教えにしても、自分たちが信じていることについて、とやかく言われたくない。そう思うようになる。そのような段階になると、このようなディオトレフェスのような人が現れてくるのです。

 ディオトレフェスは、ガイオがいた教会において有力な人だったようです。彼は恐らく教会の自立を主張したのです。彼は異端ではありません。間違った教えを伝えているわけでもありません。しかし、使徒たちの権威のもとにあることを拒否したのです。ディオトレフェスがどれほど自分自身で意識していたかは別として、結果的には彼自身が使徒たちに代わる権威となることを望んでいたことになるのです。

 具体的に彼はどうしたでしょうか。教会には他からの指導を受けるべきだと主張する人たちもいたのです。巡回教師を受け入れて支えようとするガイオのような人もいたのです。しかし、ディオトレフェスはそのような巡回教師の活動を支えることを邪魔し、受け入れようとする人たちを追い出しはじめたのです。「彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」(10節)。

 一つの地域教会が他の教会との連帯を絶ち切り、他の権威を拒否して自分たちだけで孤立してやっていこうとすることが、どれほど危険なことか分かりますでしょうか。今は間違った教えが入り込んでいないとしても、もし入り込んできたならば教会全体が異端となってしまったり、教会全体が罪を犯していながらもはや悔い改めることができない、という状態が起こり得るのです。

 さて、教会にこのようなディオトレフェスが現れてきたときに一番大事なことは何だと思いますか。それは「出ていかない」ということなのです。ディオトレフェスは自分に反対する人たちを追い出そうとしています。確かに出て行けばこのやっかいなディオトレフェスともかかわらないですむでしょう。そして、平穏な信仰生活を送ることができるかもしれません。しかし、それでもなお出て行かない人たちが必要なのです。

 明らかにヨハネは、ガイオにそのことを期待しているのです。「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。」あくまでも巡回教師を受け入れる者であって欲しい。そのような者として教会に残って欲しいということです。

 具体的にヨハネはある巡回教師を送ろうとしているようです。12節に出て来るデメテリオがその人です。ヨハネは彼について太鼓判を押して言います。「デメテリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります」と。デメテリオが入ってくることにディオトレフェスは反対したり妨害したりすることが予想されます。しかし、ガイオがいわば受け入れる中心になることが期待されているのです。そのような形において、この群れはディオトレフェスによってもたらされる危機的状況から守られることになるのです。

 さて、最後に頌栄教会について申し上げましょう。頌栄教会は日本基督教団に属しています。他の教会とのつながりにあります。教団の教憲・教規、つまり教団の規則からは外れては動けないようになっているのです。牧師は頌栄教会に属するのではなく教団に属することになっています。わたしは厳密に言えば、頌栄教会の人間ではなく、日本基督教団の人間なのです。その日本基督教団の人間を、頌栄教会が招聘するようになっているのです。さて、これらのことがどれほど重要な意味を持っているのか、ぜひ考えてみてください。

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